続・感覚を深める技法

・「内観法」のおさらい

 前項に引き続き、感覚を深める技法について解説をおこなっていきます。

 前回は自分の身体を内側から感じる「内観法」について説明しました。この技法は非常に奥が深く、応用範囲も広いので、まだまだお伝えしたいことがたくさんあります。

 今回はまず「内観法」の概要を再確認してから、実践上のポイントについても解説をしていきたいと思います。

 

◎「内観法」の大まかな流れ

  • 自分の身体の位置関係(たとえば手がどこにあって、足はどこにあるか)や、身体の輪郭を、目を閉じたまま内側から感じる。感じにくければ、手でその部位を触って確かめてもよい。
  • 身体を動かしながら、「動いている感じ」に意識を向ける。また、動作に伴って身体の輪郭がリアルタイムで変化していく感覚も、可能であれば感じてみる。
  • 上のプロセスを繰り返すことで、「身体の個々の部位を明確に感じられること」と「全身をくまなく一度に感じられること」を目指していく(これを「身体のマッピング作業」と呼ぶ)。

 

 以上が、だいたいの実践の流れとなります。

 「身体のマッピング作業」という表現の通り、あたかも旅先で街中を歩きながら真っ白な紙へ「街の地図」を少しずつ描いていくように、目を閉じて内側から自分の感覚に意識を向けることによって、「身体の地図」を描いていきます。そして、その地図をどんどん「書き込み」でいっぱいにしていくのです。たとえば、「手の指の感じはこう、手の平はこうで手首はこう、足はこうなっていて、膝はこうで…」といった具合に、一個一個の部位を緻密に、それでいてなるべく全体を網羅するように、自分で描いた地図を「育てて」いくわけです。

 

・「明確さ」と「曖昧さ」

 前回も少し言及しましたが、この「マッピング」の過程において大事になるのは、とにかく「明確さ」です。たとえば、「自分の身体は今どんな姿勢を取っているか」ということや、「自分の身体は今どう動いているのか」といったことについて、「自分自身で明確に感じられること」がなにより重要になるのです。

 「感覚が明確である」というのがどういうことかわかりにくい人は、「利き手の人差し指」と「足の中指」の感覚を内側から感じて比べてみてください。きっとほとんどの人が、「利き手の人差し指」のほうが「足の中指」よりも明確に「位置」・「輪郭」・「動いている感覚」を感じ取ることができると思います。逆から言えば、「足の中指」のほうが「利き手の人差し指」よりも感覚が曖昧であるということです。

 

 「内観法」を実践して、「身体のマッピング作業」をある程度まで進めていった人は、「どうしても明確に感じられない場所」が身体の中に散在していることに気づいたはずです。先ほど「足の中指」を例に出しましたが、こういった部位は、いくら自分で意識しようと思っても、その「存在感」はぼんやりしていて曖昧です。感じようと思っても、うまく感じることができない。

 このような「曖昧さ」がある場合、その人は自分の身体のその部分を十分に意識化することができていないと考えられます。たとえば、背中の感覚が曖昧な人は、背中の意識も希薄です。こういった人の場合には、たとえ後ろから誰かが接近してきても、すぐ近くに来るまで全くそのことに気づかなかったり、背中を自分で動かそうとしても、思うように動かすことができなかったりします。他に、左半身の意識が希薄な人は、右側から話しかけられると言われたことを理解しやすいけれど、左側から話しかけられると集中して聞くことができません。また、足の意識が希薄だと、ちょっとしたことでバランスを崩して転んでしまうことも多いです。

 ちなみに、こういった「感覚の曖昧さ=意識の希薄さ」は武道では「隙(すき)」と呼ばれています。たとえ身体の形を整えて厳重な防御体勢を取っていても、こういった「意識の隙間」があると、そこから相手に容易に攻め込まれてしまうからです。つまり、武道的な意味で「隙がない」というのは、「全身を隙間なく意識化できている」ということなのです。

 

 全身の隅々まで「意識」が行き渡っていると、身体のどこで何が起っているかをすぐに自覚・把握することができるようになるため、もし身体のどこかで不具合が生じていても、それが深刻なものになる前に自分で気づいて姿勢を変えるなどの手を打つことができます。

 また、そこからさらに「内観」が練れてくると、身体の姿勢調節能力がどんどん高くなっていくので、「ただ立つ、ただ坐る」といった基本姿勢の質が上がり、「姿勢が崩れる」ということそのものが減っていきます。そこまでいけば、姿勢が常に安定した状態にキープできるので、「身体のどこかが痛くなって姿勢を変える」ということを、わざわざする必要性もなくなります。

 

 そして、なによりも重要な変化としては、「身体の意識化」が進んでくると、身体に対して「無意識」だったときに比べて、自分や周りの状況全体を冷静に眺める気持ちのゆとりが出てくることです。身体の中に「曖昧さ」がたくさん残っていると、周りのことはおろか、自分のことさえ眺める余裕がありませんが、「曖昧さ」が減って「明確さ」が内側に満ちてくると、「自分は自分の身体をわかっている」というはっきりとした確信が持てるようになるのです。

 これは「自分はわかっている」という無根拠な自己暗示ではありません。たとえば、私たちは普段、自分自身の手の存在を疑うことはありませんし、「コップを取ろう」と思えば確実に自分の手でコップを取れることを「知って」います。それは、わざわざ自分に暗示をかけて言い聞かせなければならないことではなく、「全く自明で確実なこと」なのです。

 もし全身に「明確さ」が満ち満ちて、「知っている」という確信の中に定まることができたなら、私たちはもっと地の足のついた形で、心を落ち着けて物事に取り組むことができるようになっていくことでしょう。

 反対に、「曖昧さ」が自分の中にたくさん残っていればいるほど、私たちの心身は不安定になっていきます。何かを「知らない」ということは、それについて的確に対処できないということですから、「無知」は私たちの中に不安を呼び起こさずにはいないのです。

 

 以上の説明で、「内観法」において、なぜ「明確さ」が重要視されるのか、いくらか理解してもらえたのではないかと思います。

 感覚に意識を向けることによって、自分の身体を即物的に「知って」いく技法。それが「内観法」です。

 そして、このような地に足の付いた「身体の理解」が、「自分自身に対する理解」の基礎となるのです。

 

・自分自身を理解する

 前回も書きましたが、私たちは普段、自分の身体をほとんど意識することがありません。しかし、「内観法」によって「身体の明確化=意識化」が進行するにしたがって、私たちは日常的に自分がどれほど無意識に多くのことをしていたかに、徐々に気づくようになっていきます。

 たとえば、ある人は他人と話しているときに無意識にほっぺたを指で触る癖を持っているかもしれません。また別のある人は、相手が話している間中、機械的に頷いて相槌を打ち続けているかもしれません。

 こういった「無意識的な動作」には、その人の「実態」が如実に表れているものです。

 上の例で言うと、話している間に顔を触る癖がある人は、相手と自分の視線が直に交わらないよう手で「バリア」を作っている可能性が考えられます。そこには、当人の中に潜在している「他者への恐れと不安」が表現されているとも言えるでしょう。

 また、機械的に相槌を打っている人は、そもそも相手の話に興味が無く、ろくに話を聞いてもいませんが、自分自身ではそれに気づかないでいます。そういった人は、「自分と他人は大して違うことを考えていない」と最初から決めてかかっており、「ひょっとしたら他人は自分とはまったく違うことを考えているのではないか?」という問いと直面することを避けるために、「何を言われてもひたすら頷く」という身振りによって話をさっさと流してしまおうとしているのかもしれません。

 

 このように、「無意識にしている動作」には、当人の「実態」が表れています。

 それゆえ、他人は外からそれを冷静に観察して、「この人はこういう人なんだな」と理解することができるわけですが、本人は「無意識」なまま同じ動作を繰り返しているので、自分でそれになかなか気づくことができません。さっきの「機械的に相槌を打つ人」の例で言えば、「実態」としては「話をまともに聞いていない」のに、本人は「熱心に耳を傾けている」と思い込んでいたりするわけです。

 もし「自分がどういう人間なのか」を知りたいなら、自分の「無意識的な動作」を観察すれば多くのことが明らかになります。「そんなの知りたくなんかない」と言う人もいるかもしれませんが、もしも「自分を変えていこう」と思うなら、私たちはまず「事実」を直視することから始めるしかありません。なぜなら、私たちには「事実」しか変えることができないからです。

 たとえば、もし私たちの内側に「事実」としてあるが怒りだけで、愛情深い身振りが「表面だけの作り物」であれば、私たちに変えることができるのは「怒り」のほうであって、「愛」ではありません。もちろん、「愛しているかのような演技」をさらに厚く上塗ることならできるかもしれませんが、それによってますます私たちは自分の中にある「怒り」を自覚することが難しくなってしまうでしょうし、やがては「自分の中に怒りは存在しない」とさえ考え始めるかもしれません。

 でも、他人にはちゃんとわかってしまいます。というのも、もし内側に「怒り」が在るなら、その人のあらゆる「無意識的な動作」の中に、奥深くにある「怒り」が滲み出てきてしまうからです。

 

 自分自身を真に変えるためには、まず「事実」を理解するところから始めることが必要です。そして、自分の「無意識的な動作」を観察することによって、理解は自然と訪れます。

 身体を明確に意識できるようになっていくと、これまでの人生で何千回も機械的に繰り返してきたであろう「無意識の動作パターン」が徐々に自覚できるようになっていきます。身体への意識が日常的に定着することで、それは必ず起ります。

 そして、私たちはつくづく自分にうんざりすることになります。「また自分は同じことをしている」「またしている」「まただ」「また…」と、たった一日の間だけでも何十回と同じことを無意識のうちにしている自分に、私たちは気づくようになっていくのです。

 こういった「気づき」を何十回、何百回と積み重ねていると、確かに時としてうんざりもするのですが、私たちは徐々に「自分がしていること」に気づくのが早くなっていきます。最初は「無意識の動作」が終わってから、自分が「それ」をしていたことに気づいていたのが、少しずつ動作の途中で気づくことができるようになっていくのです。さらに「気づき」が育っていくと、「無意識の動作」を始めようとしている瞬間に気づくことができるようにもなります。最初のうちは絶望的に思えますが、時間をかけて自分の動作を観察し続ければ、いつか必ずそうなります。

 そして、「動作」を始める前に気づけたならば、そこから「全く別なこと」をするのも選べるし、「そもそも何もしないままでいること」も私たちは選べるようになっていくのです。「毎回気づいたらそれをしてしまっていた」という「選択の余地がない状態」から、「他の選択が可能な状態」に変化していくわけです。

 

 また、そういった「気づきの成長」と同時に、自分がなぜそれほどまでに「同じこと」を繰り返していたのかも理解できるようになっていきます。たとえば、「自分の中に恐れがあったから、こういう身振りで自分を守ろうとしていたのだ」とか、「自分の中に不安があったから、こういう身振りでそれから目を逸らそうとしていたのだ」とかいったことが、「事実」としてきちんと自覚できるようになるのです。

 一度でも「自分の事実」が見通せたら、そこから先どうするかは本人の「意識的な選択」に委ねられます。「自分が何のために何をしているか」を自覚した上で、今後も「同じこと」をするのが必要だと思えばそうするでしょうし、その時々の状況によって「違うこと」をする必要が生じれば、臨機応変に振る舞うでしょう。

 「自分の事実」を知れば、私たちはそこから自由になることができます。しかし、もし私たちが「事実」を知ることがなく、「自分は何のために何をしているか」を理解しなければ、私たちは容易に「無意識的の習慣」に絡め取られ、「他の選択肢」を全て失ってしまうのです。

 

・「曖昧さ」をなくすワーク

 話を「内観法」に戻します。「内観法」は、私たちの内側にある「曖昧さ」を減らし「明確さ」を根付かせるための技法なのでした。そして、その「明確さ」が「身体への理解」を生み、「身体への理解」が「自分自身への理解」へと繋がっていくことになるのです。

 しかし、人によっては「曖昧な感じ」をどうやってなくしたらいいのかわからないかもしれません。そこで、今回は「内観法」を実践していく際の補助として、二つのワークを提示して終わろうと思います(これらはあくまでも「技法の補助」という位置づけなので、区別のために「ワーク」という呼び方をすることとします)。

 

 「内観法」をしばらく続けていくとわかりますが、「曖昧さ」にはいくつか種類があります。たとえば、「カチカチに固まっていてうまく感じられない」という場合や、「中身がスカスカで感じるべきものが見当たらない」という場合があります。

 以下の二つの技法はそれぞれ、「固まっているように感じる場合」と「中身が無いように感じる場合」に使うものです。

 

1.脱力法(固まっている部分をほぐすワーク)

  • 坐った姿勢か寝た姿勢を取り、なるべくリラックスする。
  • 息を大きく吸い込んで、いっぱいになったら息を止める。
  • 息を止めるとき、「固まっている感じがする部位」に力を込めて、極限まで緊張させる(固まっている部位だけを緊張させるのが難しければ、全身満遍なく緊張させるのでもOK)。
  • そのまま5秒ほど息を止めた状態で身体を緊張させて、息を吐きながら一気に緊張を解く。
  • 楽に深呼吸をしながら、「固まっているように感じた部位」にもう一度意識を向けて、「曖昧さ」がいくらかなくなっていることを確認する(「固まった感じ」が残っている場合には、2~3回繰り返す)。

 

2.グルーミング法(スカスカな部位に中身を入れるワーク)

  • 「中身が無いように感じる部位」を自分の手で触ることができるような姿勢を取る(自分の手で触るのが困難な部位であれば、誰かに協力してもらい、外から相手に触ってもらう)。
  • 目を閉じて、手の平と指を満遍なく使って「中身が無い部位」を撫でていく(愛する人や大事なペットを撫でるときのように、慈しみと愛情を込めて撫でるとなお効果的)。
  • 撫でることによって身体がリラックスしてきたら、手の平を「中身が無い部位」にそっと当てて、ゆったりと穏やかに呼吸する。そして、息を吐くときに手の平の温かさが自分の中に浸透するのをイメージして、そのまま2~3分のあいだ、手を当て続ける。
  • 心地よくなるまで続けたら一度手を離し、「中身がないように感じた部位」に意識を向けて、「グルーミング」の前後で感じが変わっていることを確かめる。

 以上が、「曖昧さ」をなくすための二つのワークです。

 他にも「曖昧さの種類」によって細かいテクニックがいくつかありますが、ここではひとまず最も基本となる二つを示すだけにしておきます。あまりたくさんのワークを列挙すると、覚えることばかりが増えてしまって「本質」が見えにくくなりますし、一度「本質」が掴めさえしたら、こういったワークは自分でいくらでも作り出せるからです。

 また、これらはあくまでも「内観法」の補助となるものに過ぎませんから、上で書いた通り厳密におこなう必要もそれほどありません。実践する人それぞれがいろいろアレンジを考えて、どうやったら「曖昧さ」がなくなって身体を感じやすくなるか、各自で工夫してみてください。

 

 今回はこれで終わります。

 次回、「感覚」「思考」「感情」という三つの技法を橋渡しする「呼吸法」について書き、これをもって、ひとまず「感覚を深める技法」についての解説は終えようと思います。

 「呼吸法」は、「内観法」の応用技術にあたる技法ですが、のちのち解説していく予定の「思考を観察する技法」や「感情を乗りこなす技法」を実践する上でも鍵となる技法です。「内観法」が私の提示する技法体系の「基礎」であるなら、「呼吸法」は三つのアプローチすべてを繋ぐ「中心的な技法」と言うことができるでしょう。

(2018年10月3日加筆修正)

 

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