感覚を深める技法・まとめ

・まずは復習

 前回前々回の二回にわたって、感覚を深める技法について解説をしてきました。

 いささか話が込み入ってきましたので、ここで一度おさらいをしておきましょう。

 

 まず感覚を深めるための中心的な技法は「内観法」でした。これは、目を閉じた状態で自分の身体を内側から感じていく技法です。そして、「内観法」によって、「身体の個々の部分はこうなっている」「身体全体ではこうなっている」といったことを自分で丁寧に把握していく作業を、「身体のマッピング」と呼ぶのでしたね。

 「身体のマッピング」を進めていく際には、とにかく「明確さ」が大事です。身体の中には、人によって「曖昧にしか感じられない部分」もありますが、それをなるべく「明確に」感じられるようにしていく。そうすることによって、「自分は自分の身体がどうなっているか、ちゃんとわかっている」という自信がつきますし、気持ちの上でもゆとりができてきます。また、感覚を通して身体の情報が正確に把握できることで姿勢は安定し、運動の質も上がります。

 

 それから、「感覚を深めるための大原則」は、「自分の感覚に自覚的に意識を向けていくこと」でしたね。無意識なまま感覚刺激をたくさん入れたら良いわけではなく、意識的に自分のほうから感じようとしていくことが、感覚を深める際には不可欠なのでした。

 そして、感覚に意識を向けていくことによって、「自分の身体を意識する」ということもできるようになっていきます。身体を意識できるようになることで、自分が普段、無意識に取っている姿勢や、知らず知らず何度も繰り返している動きのパターンなどにも気づけるようになります。こういった「無意識に繰り返しているパターン」の中にこそ、「自分自身を理解する鍵」があるという話でした。身体を意識化することによって、「自分の無意識」を読み解いていくわけです。

 

 今回は、もう一つだけ感覚について大事なことをお伝えし、感覚技法のまとめとなる「呼吸法」について解説していこうと思います。

 では、始めていきます。

 

・「受動」と「受容」

 これは、私が自分の説明の都合から独自に設けている区分なのですが、私たちが何かを感じるとき、そこには「受動的な感じ方」と「受容的な感じ方」の二つの感じ方があります。「受動」と「受容」というのは、言葉としては似ていますが、私はそこに明らかな質の違いがあると思っているのです。

 まず、「受動的な感じ方とは何か」ということを説明してみましょう。

 たとえば、あなたがショッピングモールを一人で歩いているとします。特に「買いたい物」が決まっていたわけではなく、なんとなく時間を潰すため、これまであまり足を運ぶことのなかった近所のショッピングモールへ散歩に来たという設定で想像してみてください。

 ショッピングモールのあちこちには、それぞれのお店の看板やら、目玉商品を山積みにしたワゴンやらが置いてあります。次から次に現れるお店は多種多様で、看板や広告の文字もカラフルで目を惹きます。

 こういうとき、私たちは無意識に「あっちの看板を見て、こっちの商品を見て」と忙しく視線を動かし続けてしまうことがあります。とはいえ、そもそもそこにある全てのお店が「道を通る人の目を少しでも惹くように」と考えて看板や商品を並べているのですから、そうなってしまうのも当然のことです。

 こういう風にして過ごす時間は、目には楽しいものですが、お店のほうを見るのに夢中になっていて、前から来る人に気づかないこともあります。これは最近よく問題視される「歩きスマホ」とも似た現象です。実際、上述した「ショッピングモールでの散歩」の場合も、「歩きスマホ」の場合も、私たちは看板広告やスマートフォンの画面などといった「外側の刺激」に目を惹きつけられている状態にあります。そして、日常の中でよくよく自分や他人のことを観察してみると、こんな風に「外側に向かって惹きつけられている状態」というのは、私たちの中にたいへん頻繁に見受けられるのです。

 

 私が「受動的な感じ方」と呼ぶのはこのような状態のことです。つまり、自分で意識的に「感じよう」と思ったことを感じているわけではなく、外側から引っ張られて「感じさせられている」ような状態です。

 たとえば、休日などにネットサーフィンで暇を潰していたら、気づくと数時間経っていたということはありませんか?

 いつの間にかもう日が暮れかかっているけれど、「今日中にしなければならない用事」が残っていたことを思い出し、私たちは慌ててPCの電源を切って、「どうしてこんなことになってしまったのだろう?」と自問したり、「自分はなんて意志が弱いのだろう」と自己嫌悪に陥ったりします。

 こういう時、私たちは自分がとても窮屈な姿勢を取っていても気づかないですし、目や首がガチガチに強張っていても自覚できません。身体に対して無意識になっていて、まったく身体を感じていない。視覚だけが、外側の世界に引っ張られて「受動的に感じさせられるモード」に入っており、それ以外の感覚は「無いも同然」です。

 ショッピングモールの中もそうですが、ネット上にも私たちの注意を惹きつける仕掛けが無数に存在しています。商業的なサイトであれば、「このページを見たということは、これも見たいんじゃないですか?」という風に、私たちがついついクリックしたくなるような情報を、容易に手が届く位置に配置しているものです。そうして、あちこちのサイトやページを見て回っているうちに私たちの時間は消費されていくわけですが、サイトの運営側は私たちがあちこちクリックすることによって広告収入を得ることができるし、上手くいけば商品を買ってもらえることもあります。

 これは、スーパーマーケットのレジの横に「別にそれほど必要なわけでも無いけれど、高くもないし、あれば使う」といったレベルの商品を置いているのと同じ戦略です。もともと「買い物リスト」には載っていなかったのに、ついついああいった商品を自分のカゴに入れてしまった経験がある人は多いと思います(私はあります)。

 

 私たちの注意を外側から引っ張って、「在っても無くても困らない物」を手に取らせる。

 これは、今の社会において非常に広く使われている手法です。そして、その手法は私たちが「無意識」であることの上に立脚しています。

 当たり前ですが、もし私たちが「自分は今ここで何のために何をしているか」ということを自覚していて、「自分にとって確かに必要な物」や「自分にとって本当に大切な物」がなんであるかを意識できている場合には、こういう手法は効きません。逆に、私たちが自分自身に対して「無意識」であればあるほど、こういった戦略によって「受動的に引っ張り込まれる」可能性は高まるのです。

 

 しかし、私は別に「何かを欲しいと感じても我慢するべきだ」と言いたいわけではありません。「意識的になる」ということは、「たとえ欲しい物があっても無理して我慢する」ということではないのです。

 むしろそれは、「『本当に欲しい物』のためにだけ、自分の時間とお金とエネルギーを使う」ということです。そういう意味で、「意識的に生きる」という在り方は、無意識なまま外側の誰かや何かに流されて「在っても無くても困らない物」を集め続ける在り方よりも、ずっと「贅沢」で「わがまま」なものと言えます。

 

 さて、これで私が言う「受動的な感じ方」というのがどういったものなのか、ある程度理解してもらえたのではないかと思います。

 それはまるで「心ここに在らず」とでもいったような「無意識的な在り方」であり、「常に外側の刺激によって引っ張られている状態」です。この「外から引っ張られる」という点を強調する意味も込めて、私はそれを「受動的」と表現しているわけです。

 

 それでは、「受容的な感じ方」とはどんなものでしょうか?

 また一つ、例を挙げてみましょう。たとえば、あなたが山へハイキングに行って、たまたま「静かな場所」を見つけたとします。木々の隙間からこぼれ落ちる日の光が足元を淡く照らし、どこからか水のせせらぎが聞こえてくる。そういう場所です。

 そこで一休みすることに決めたあなたは、息を整えるように、ゆったりと一度深呼吸をします。呼吸とともに自分の中へ入ってくる山の空気を感じ、自分の中から出て行く息を感じます。そして、葉の隙間から差す日の光と木々の陰が織り成すコントラストを楽しんでから、ゆっくりと目を閉じ、今度は水のせせらぎや鳥の鳴き声に耳を澄ませます。ときおり風が吹くと、葉がザワザワと音を立てるのが聞こえ、それにも耳を傾ける。

 私たちはこのとき、「感覚の海」の中にいます。沈黙の中に響く音、光の感触、空気の味わい。そういったものが私たちを満たしていき、私たちはとてもリラックスして、充実した気持ちになります。

 

 これが私の言う「受容的な感じ方」です。

 そこには、「『外側』から引っ張られる感じ」よりも、むしろ「『自分の中心』へ落ちていく感じ」があります。こういうとき、私たちはあちらこちらへ忙しく走り回ることをやめ、ただ「今ここ」に佇んで、自分のところへとやってくるものを、そのまま受け取ろうとします。そして、そのような「受容的な姿勢」を私たちが取るとき、この世界は思いがけないほどの彩りと奥深さを伴って現れてくるのです。

 しかし、「それ」は山の中にしか無いというものではありません。実際には、私たちの日常は「それ」によって溢れています。もし私たちに「受容的な姿勢」があれば、日々の食事の中や、家族とのかかわりの中、歩くことや呼吸することの中にさえ、豊かな色合いと深い奥行きが存在することがわかります。

 ただ、「受容的」と言っても、それは決して「受け身な状態」ではありません。そこには、「もっと丁寧に感じよう」という、私たち自身の「意識のベクトル」がはっきりと存在しているからです。もし私たちがこのような「意識のベクトル」を無くしたまま日々を過ごすなら、私たちは「自分自身」を見失うだけでなく、この世界が持つ無数の「神秘」をも見逃し続けてしまうことになります。

 そういう意味で、「受動的な在り方」とは「無意識的な在り方」のことであり、「受容的な在り方」は「意識的な在り方」という風にも言い換えられます。

 ただし、さきほどの例のように、もしも山の中で私たちが「受容的な姿勢」になったとしても、往々にしてそれは、たまたま「そうなりやすい状況」が到来したからに過ぎません。きっとほとんどの人は、家に帰ったら「受動的な在り方」に戻ってしまうことでしょう。

 外側の状況に関係なく「受容的」であるためには、どうしても「修行」が必要になってきます。それがつまり、「技法の実践」です。

 

・技法の習熟における「三つの段階」

 これまで解説してきた「内観法」や、これから解説する「呼吸法」に限らず、あらゆる技法は、その習熟の段階を三つに分けることができます。すなわち、「受動的な段階」「能動的な段階」「受容的な段階」の三つです。

 「受動」と「受容」という二つについては、既に説明しました。「無意識のパターン」に引っ張られて自分を見失っているのが「受動的な状態」で、「自分自身のパターン」に対して意識的に目覚め、世界と自分をありのままに受け容れている状態のことを、「受容的」と今回の講義では表現しているのでした。

 そして、この「受動」と「受容」の橋渡しをするのが技法であり、ここにおいて、私たちは「能動的」に自分の意志を働かせ、技法を実践していくことになります。つまり、決して「受け身」でいてはいけないわけです。意識的に努力をして、忍耐強く、技法に取り組むことが必要になります。

 技法を実践している間は、「受動的・無意識的な状態」に戻っていきそうになるのを何度でも頑張って引き戻し、少しでも「意識的」になるように努めることになります。そこには絶えず緊張があるため、完全にリラックスした「受容的な在り方」とは天と地ほどの違いがあります。

 しかし、この「能動的に意識的な努力をする」という段階をスキップして「受容」に至ることは私たちにはできません。このことは、私たちが根気強く技法を実践していく過程において、少しずつ理解できるようになっていくことの一つです。

 

 たとえば、これまで解説してきた「内観法」を毎日実践していく場合、最初のうちは感覚に意識を向けることそのものが難しく感じる場合もあるでしょう。手や腕などは意識をしやすくても、足や腰、背中などは、人によってはかなり真剣に集中しないと意識化することができないはずです。

 ここにおいて、実践者は「受動的な無意識」の中に沈み込んだところから「能動的な意識化」を試みることになります。そこには必ず「意識的な努力」が必要になりますから、慣れるまでは心身の緊張が取れませんし、日常生活の作業をしながら「内観」をおこなうこともできません。足や腰や背中を感じることだけに全神経を集中して、他の物事をすべてシャットアウトしないと、それらの部位を明確に感じることができないからです。

 しかし、そういう状態はずっとは続きません。毎日地道に技法を実践していると、あるとき、自分がかつてほど努力しなくても身体を明確に意識できるようになっているのを、実践者は発見することになるでしょう。以前であれば、かなり努力しなければ感じられなかった微細な感覚を、さほど困難を覚えずに、感じ取ることができるようになるのです。

 おそらく2~3週間はかかりますが、続けていれば必ずそういう変化が起ってきます。そして、3ヶ月も続ける頃には、その変化もかなり定着して安定してきます。

 私たちはここに至ってようやく、「能動的な意識化」を「受容的な意識状態」へ変えることができるようになります。先の「内観法」の例で言えば、「自分の身体を意識しているモード」それ自体が、それほど努力しなくても日常的に維持できるようになっていくのです。

 もし努力が必要であれば、日常的にそのような状態の中で生きることは不可能です。「能動的な状態」は続けていると誰でも必ず疲れるので、長時間持続させることができません。しかし、「受容的な状態」にシフトしていくと、努力や緊張がなくなり、無努力でリラックスしていることができるようになるので、たとえば、技法とは無関係な別の作業をしながらでも、その「モード」を維持したまま作業をこなすことができるようになっていきます。

 

 これが私の言う「能動」から「受容」へのシフトです。

 ここまで到達しない限り、「その技法をものにした」とは言えません。「能動的段階」で頑張って実践をしている間は、常に「受動的段階」に戻ってしまう可能性と闘わねばならないからです。そして、だからこそ、そこには「不断の緊張」があるわけです。

 しかし、その「緊張」は決して「間違ったもの」ではありません。そこは「いつまでも留まるべき地点」ではありませんが、「先に進むためにも越えねばならない場所」なのです。

 もし一度でも「受容的段階」まで到達すると、もう「受動的段階」に戻ることはなくなっていきます。むしろ、前までは気づかなかったような微細な「無意識」にも気づけるようになり、それを意識化することによって、ますます深く「受容的な状態」へと目覚めていけるようになる。

 

 たとえば、「内観法」の実践を続けていくと、「全身を意識化している状態」を努力しなくても維持できるようになっていきます。時間は多少かかるかもしれませんが、頑張って真剣に続けていれば、いつか必ずそうなります。

 そして、そこまでいくと、「身体を意識しよう」といちいち自分で思う前にもう「身体に対する意識」があるので、努力は自然と落ちていくようになります。努力が落ちることで緊張もなくなり、前まではその緊張のためにうまく感じられなかったわずかな感覚にも、自然と「内側の目」が開かれていきます。

 そうして、新しく見えてきた感覚を明確に感じようと努力することでますます意識がはっきりしてきて、それゆえさらに努力が必要なくなってリラックスし、リラックスするのでもっと微細なことが感じられ…という風に、無限に「内観」を深めていくことができるようになるのです。

 

 技法の実践によって、私たちは「受容的在り方」という「我が家」にいつか帰り着きます。それは「一つのゴール」であると同時に、「ゴールの消滅」をも意味します。

 「我が家」に帰り着いたとき、私たちは「実践には終わりが無い」ということを知ります。それは「無限の深み」を持ったものであり、そこには「これで終わり」といったような「限界」が無いということがわかるからです。

 「受容的な段階」に至ったとき、私たちは「無限なるもの」を垣間見ます。その深みとその味わいは、一度知ったら忘れることができません。

 私がこの文章を書いているのは、あなたの中にその「無限の味わい」の最初の一滴をもたらすためです。もしあなたがその「味」をたった一滴でも知ったなら、それ以降、私の言葉は徐々に必要なくなっていくでしょう。というのも、そのときあなたはもう「どこに向かってどう進んだら良いか」を、自分自身で知っているからです。

 

・「息の深み」に落ちていく技法

 それでは、技法に入ります。今回は、「内観法」の応用編ともなる、「呼吸法」についてです。

 そもそも呼吸は私たちの意識とは関係なく続いていくものです。生まれてから死ぬまで常に続いていくもの、それが呼吸です。呼吸以外の多くのことは、その時々でしたりしなかったり、得たり失ったりすることがありますが、呼吸は「しないこと」や「無くすこと」を選べません。それは、呼吸が私たちの生命活動を維持する上で必須のものだからです。

 それゆえ、呼吸は私たちが完全に無意識でも問題なく継続することができるような形で、初めから身体のメカニズムに組み込まれています。呼吸に対しては、まったく無意識なままでいることもできるし、意識的であることもできます。どちらを選ぶかは、私たち次第です。

 

 とはいえ、私たちが普段の生活の中で呼吸を意識することは、実際のところ、ほとんどありません。もし何か呼吸に異常が発生したりすれば(たとえば、息苦しさを感じたり、呼吸が異常に荒くなったりすれば)、私たちはたちまち自分の呼吸を意識しますが、そうでもない限り、私たちは呼吸に対して無意識です。言い換えれば、それだけ「受動的な状態」にあるのです。

 それゆえ、普段の私たちの呼吸は「外側の刺激」によってたいへん引っ張られやすい状態にあります。たとえば、突然大きな音が鳴ると私たちはビックリして息を止めます。「止めよう」と意識したわけではないのに、思わず止まってしまう。

 または、精神的に興奮するような情報や感覚刺激が入ってくると、すぐに呼吸が荒くなっていきます。一度呼吸が乱れてしまうと、自分で「落ち着こう」と思っても、なかなか心身の動揺が消えてくれません。

 他にも、映画や遊園地のアトラクションに夢中になっていると、私たちの喜怒哀楽に合わせて呼吸は実に目まぐるしく変化します。実のところ、私たちは映画やアトラクションの「内容」を楽しんでいるというよりも、こういった「目まぐるしい呼吸の変化」をこそ楽しんでいるのです。

 

 私たちは基本的に呼吸に対して無意識であり、それゆえ、私たちの呼吸は日常的に「受動的な状態」にあります。だからこそ、私たちの呼吸は大変移ろいやすく、簡単にあちらこちらへ引っ張られます。

 そして、それをいきなり「受容的な状態(ゆったりとした呼吸が何の努力も無く維持されている状態)」へと変えるのはたいへん難しいので、段階的に進んでいくことが必要になるのです。

 これから説明する「呼吸法」は、三つのパートに分けられています。それは、ここまで説明してきた「受動」から「能動」、「能動」から「受容」という段階を経て技法に習熟していく際に、実践者がなるべく着実に進むことができるようにするためです。

 その三つのパートとは、「浄化」「充足」「観照」です。 

 

<呼吸法1 浄化のパート>

  1. リラックスして床に坐り、なるべく背筋は伸ばした状態で始める。
  2. 口から「はあぁ」と長く息を吐きながら、身体を少しだけ前に傾けていく。このときなるべく多くの空気を吐くようにする。身体の中に溜まっていたものが、口だけでなく、全身の毛穴からも出て行くようにイメージしながら吐き切る。
  3. 十分に吐き切ったら、吐こうとする力を弱めることで自然と息が入ってくるので、その吸う息と一緒に身体を真っ直ぐなところまで戻す(吸うときは口ではなくて鼻から吸う)。このとき、息を吐ききって空っぽになった身体の中心に、地面から「空気の柱」が立ち上がるようにイメージしながら息を吸うようにする。
  4. 息を吸い切ると同時に、背筋をすっきりと伸ばし、そのままの状態で息を止め、一拍(時間にして1~2秒)キープしてから2に戻る。
  5. 以下、2~4の繰り返し。

 このパートでは、身体の中に溜まった「古い空気」を意識的に捨てていくことを目的にしています。

 これは生理学的な事実ですが、私たちはどれだけ頑張って「息を吐き切ろう」と思っても、必ず肺の中に空気がいくらか残るようにできています。私たちの身体の構造から言って、肺の中の空気を全て出し切ることは私たちにはできません。そして、「どれだけ頑張っても吐き切れない」ということは、見方を変えれば、「もしも息が浅くなっていると、出し切れていない空気が肺の中にどんどん溜まっていってしまう」ということでもあります。

 

 「古い空気」がいつまでも身体の中に留まってしまうと、それだけ新鮮な酸素が入る隙間がなくなってしまいますから、身体は十分なエネルギーを生み出すことができず、活力を失っていきます。特に喉や胸、お腹に緊張があると、そこで息がつかえてしまって呼吸が浅くなりますから、身体の緊張を取ることが私たちの活力を増大させる上では非常に重要になるわけです。

 このパートでは、意識的に身体を絞るようにして息を出していきますが、それには「緊張を解くための刺激を入れる」という意味もあります。前回の文章で説明した「脱力法」と同じ原理で、「力いっぱい息を吐いて、吐く力を弱めることで吸気する」という緊張と弛緩の繰り返しによって、身体の強張りを解いていくことを意図しているのです。

 

 また、「息がいつも身体の中に溜まりがちである」という状態は、「何かを手放すことができない」「自分の過ちや敗北を認めることができない」「疲れていても思い切って休むことができない」などといったその人の「心理的傾向」とも関連しています。それゆえ、息を吐きながら、空気以外にも「内側に溜まっていたもの」が出て行くようにイメージすることで、「しがみついているもの」を手放せるように、「勝利すること」に固執しなくても済むように、「本当に疲れたとき」には思い切って倒れることができるように、心にも働きかけていきます。

 そういう意味で、これは「心と身体の浄化」を目的とした呼吸法と言えます。心と身体に溜まっていたドロドロしたものがなくなって、スッキリする感じが出てくれば上手くできています。時間としては5~15分程度を目安におこないますが、慣れてきたらもっと短い時間でも内側がスッキリする感じが出てくるようになるでしょう。

 

<呼吸法2 充足のパート>

  1. リラックスして坐り、なるべく背筋は伸ばした状態でおこなう。
  2. 鼻から息を吸いながら、身体の中心を下から上へ光が昇っていくのをイメージする。内側で光が昇っていくのに合わせて、手を下から上にあげていくとイメージしやすくなる。
  3. 頭のてっぺんを突き抜けて、天高くまで光を吸い上げたら、そこで息を止めて一拍おく。
  4. 口から「ふうぅ」と細く、長い息を吐きながら、手を降ろしていく。そして同時に、天に昇った光が雨になって降り注ぐのをイメージする。その「光の雨」が自分の身体に満遍なく降り注ぎ、身体の内側に染み込みながら、地面に流れていくのを感じる。
  5. 地面に戻っていった光を、吸う息とともに吸い上げるような気持ちで、再び2に戻る。
  6. 以下、2~5の繰り返し。

 

 この呼吸法は、前述の「浄化のパート」に続けておこないます。こちらも時間としては5~15分を目安におこないますが、慣れてきたらもっと時間を増やしてもいいです。30分くらい続けておこなうと、心身ともに、かなりスッキリすると思います。

 「浄化のパート」では、「心身に溜まっているものを出していくこと」を主な目的にしていました。そうすることで、自分の内側に「新しく何かが入るスペース」を作り出すわけです。

 今度は、その「スペース」に光を取り入れるようにイメージして呼吸をしていきます。光は「明確さ」を表しており、この呼吸法では、内側が「はっきり」していく方向を目指します。

 私たちの心身には、「具体的なイメージを描き続けると、実際にそういう感覚が起こり始める」という性質があるのですが、これを利用します。つまり、「光のイメージ」をありありと想い描きながら呼吸をすることで、「はっきりしていく感覚」を実際に呼び起こしていくわけです。

 このパートでは、「浄化のパート」によって空いた「自分の中のスペース」を、呼吸とともに満たしていきます。そうすることで、私たちの心身に「明確さ」や「明晰さ」、「透明な感じ」を定着させることを主な狙いとしています。

 

<呼吸法3 観照のパート>

  • リラックスして坐り、なるべく背筋を伸ばした状態でおこなう。
  • 息は、鼻から吸って鼻から吐く。
  • 目を閉じたまま、起ってくる息を変えようとせずに、そのまま感じるよう努める。入ってくる息を感じ、出て行く息を感じる。
  • 途中で意識が呼吸から逸れてしまったら、それに気づくたびに、ゆっくりと呼吸へ意識を戻していく。

 「浄化のパート」において内側で淀んでいたものを吐き出し、「充足のパート」では内側を「明確さ」で満たします。そして、最後にその「透明な意識」でもって呼吸を見つめる「観照のパート」に入ります。

 このパートも最初のうちは5~15分を目安に実践し、慣れてきて心地よく感じるようであれば、時間を延ばしていってください。ゆくゆくは、「観照のパート」だけを一時間ずっとおこなっても、疲労や負担を感じずに、心地よく呼吸の中に浸っていられるようになります。

 

 前の二つのパートは、身体の動きやイメージを使って「能動的に何かをする」という側面が強くありましたが、この最後のパートでは「何もせず、ただ起こってくる呼吸を感じる」というだけなので、その在り方は「受容的な無為」に近いです。上の説明で、私は「受動→能動→受容という三段階を経て技法は深まっていく」と述べましたが、この「観照のパート」はまさに「受容的な在り方」をそのまま体現するような形になります。

 とはいえ、初めのうちはかなり「能動的な努力」をしないと、「呼吸を感じ続けること」さえ難しいと思います。おそらくほとんどの人は、気がつくと意識が呼吸から逸れてしまい、考え事に夢中になっていたり、身体の痛みや窮屈さなどが気にかかって、呼吸そっちのけで身体をモゾモゾさせていたりすることになるでしょう。この「観照のパート」では、そういった「逸脱」に気づくたびに、何度も呼吸に意識を戻すように努力していくことになります。

 前の二つのパートがある種の「準備」となって、普段より意識が集中しやすい状態になっていると思いますので、「呼吸をただ見つめる」という状態を頑張ってキープしてみてください。「努力」が積み重なっていくにしたがって、やがては「呼吸を意識しよう」と頑張らなくても、自然と呼吸と意識がお互いに吸い付き合うようになっていくと思います。

 

 ところで、実践を始めたばかりの頃は、そもそも「呼吸に意識を向ける」というのが感覚的にどういうことなのかが、人によってはよくわからないかもしれません。そういう場合には、まず「内観法」の実践を続けることで、「感覚に意識を向ける」ということのコツを掴むのを優先してください。「感覚を意識するコツ」を掴むことができたら、「呼吸を意識する」ということも、そう遠くないうちにできるようになっていきます。

 また、これまであまり自分の呼吸を感じたこと自体がなかった人の場合、まずは上述の二つのパート(「浄化」と「充足」)を重点的におこなって、少しずつ自分の呼吸に親しむようにしてみてください。そうして「内観法による感覚の意識化」と「浄化と充足のパートを通した呼吸への親しみ」が根付く頃には、きっと「呼吸を意識する」ということがどういうことなのかも、自分の体感で理解できるようになっているはずです。

 この「観照のパート」を通して呼吸の意識化が進んでいけば、実践者は自分の呼吸の中にゆったりと安らぐ地点へと落ちていきます。そうして私たちは、「自分はとうとう『我が家』に帰り着いたのだ」と知ることになります。

 

 これら三つのパートは、一連の流れとして続けておこなうことを意図して設定したものですが、それぞれ個別におこなうこともできます。

 たとえば、なんとなく頭が考え事で一杯なように感じたり、息が浅くなって苦しいように感じられたりしたら、「浄化のパート」をおこなうことで、頭も身体もスッキリすることでしょう。

 あるいは、なんとなく気分が憂鬱だったり、心の中がモヤモヤしているように感じたりしたら、「充足のパート」をおこなうことで、気持ちが晴れやかになって明晰に思考できるようになるでしょう。

 ただ、「観照のパート」を単独でおこなうことだけは、呼吸を意識することがある程度「無努力」でできるようになってからのほうがよいと、個人的には思います。慣れないうちは、「浄化」と「充足」による準備無しだと、「起ってくる呼吸をただ味わう」ということはかなり難しいためです。少なくとも、「呼吸に意識を向ける」ということがどういうことなのかわからない段階では、単独でおこなうことはお勧めしません。ただし、「呼吸を味わう」ということがどういうことかが自分自身でわかったなら、むしろこのパートだけをとことん実践したくなるかもしれません。そういう場合には、あとの二つは捨ててもいいので、これだけを実践してください。なぜなら、このパートこそが「全ての技法の本質」だからです。

 

 ↓は今回の講義で紹介した「呼吸法」の三つのパートについての解説動画です。

 身体の動きが伴う部分については文章だけではやり方がわかりにくいと思いますので、実践する際には参考にしてください(音声が聞き取りにくいようであれば、字幕をONにしてください)。

・次回予告

 これでひとまず「感覚を深める技法」については説明を終わろうと思います。

 「感覚」「思考」「感情」という私が掲げた三つのアプローチのうち、一つがこれで終わったので、このあたりで技法を実践していく際のポイントについても、まとめておきたいと思っています。つまりは、「日々の生活の中にどうやって実践を根付かせていったらいいのか」ということについてです。「やり方」だけわかっても、生活する中で続けていけないのでは意味がありませんから、「継続していくためのポイント」について述べることには意味があると思います。

 それが済んだら、次は「思考に関する技法」の解説へと移っていく予定です。

(2018年10月3日加筆修正)

 

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