言いたいこと

 このところ、日誌の更新そっちのけで、「技法講義録」の執筆を続けている。

 「技法講義録」というのは、私自身が日頃おこなっている瞑想法や呼吸法、感覚の練磨や身体使いの稽古を、他の人にも実践できるような形にアレンジして公開することを目的とした、このホームページの新コンテンツだ。技法の世界は繊細で微妙な「感覚的世界」であり、これを文章で表現するのは難しく骨も折れるが、「ひょっとしたら誰かの役に立つかもしれない」という想いで言葉を紡いでいる。

 ただ、実のところ、この「誰か」というのは極めて限られている。私の中には非常に明確な読者像があって、それ以外の人に向かって語るつもりが、私には一切無い。なぜなら、言っても無駄だからだ。

 

 私は19歳の時に、「自分は何か大切なものを見失っている」ということに気づいた。そして、それからもがき続けた。

 それまでに培ったおびただしいまでのダンスのテクニックは全て捨てた。そして、多種多様な本を片っ端から読み、あらゆる教師のもとをたずねては、「答え」を求めた。「『答え』などどこにもありはしない」と諦め、何年も無為のうちに過ごしたこともあった。それでも、生きることを諦めきれず、這うようにして私は再び求め始めた。

 私の二十代は、その繰り返しだった。

 

 私は10年以上にわたって苦闘し、暗闇の中、独りで手探りし続けた。そして、10年以上懸命に励んだにもかかわらず、自分がまるで変わっていなかったことを、ある日、思い知った。

 私はある夜、「今夜、自分の問題を乗り越えるきっかけがつかめなければ、死のう」と決意した。そうして、自分の内側を見つめて、なぜ自分の苦しみが終わらないのかを見ようとした。

 そのとき、私はこれまでたったの一度も真剣に自分と向き合ったことがなかったと、気づいた。私はいつも「自分の不幸」を誰かのせいにしてばかりいて、自分で自分を救うことを、本気で求めてなんかいなかったのだと、やっとわかった。

 そしてその夜、おそらくそれまでの人生で初めて、私は「自分」をちゃんと見たのだ。

 

 その夜を境に、私は変わっていった。

 でも、何も「特別なこと」はしなかった。どこの教師のもとにも行かなかったし、何かの教えを信じ始めたわけでもない。ただ、「今日の自分にできること」を、精一杯するようになっただけだ。

 「それで十分なんだよ」と、私はかつての自分に向かって言ってやりたい。

 どうして「他人の真似」なんかする必要がある?

 こうでないといけない、ああでないといけない。

 これを覚えて、あれをできるようになって、資格を取って、肩書きを立派にして、尊敬を集めて、それで?

 

 何も必要ない。

 一つとして、必要ない。

 「誰か」や「何か」になることなく、ただ、「自分自身」として在れば、それでいい。

 「自分の今日」を力いっぱい生き切るなら、それ以上のことを人生に望む必要なんか、在りはしない。

 

 技法の実践は、骨が折れる。毎日が学びだ。

 学びに「終わり」はなく、私たちの生に「限界」は無い。

 それを自分自身で知らない限り消えることがないほど深い苦しみを抱いているような人だけが、私にとっての「読者」だ。

 軽薄な好奇心から訪れる人や、暇つぶしで話を聞きに来た人、他人に自慢する知識を肥やすために読む人に、私はまったく用事が無い。

 私が用事があるのは、過去の私みたいな人だけだ。

 暗闇の中、震えながら独りで道を求めている人。

 苦しみながら生きていくか、いっそ今夜自殺してしまうか、真剣に悩んだことのある人。

 孤独の中で恐れおののきながら、それでも、懸命に一歩を踏み出そうとしている人。

 そういう人に対してしか、私は真面目に語るつもりが無い。

 

 私は言いたい。

 あなたのいる「暗闇」は、決して「終点」ではないと。

 たとえ「光」が全くないように思えても、必ず「道」は残されていると。

 あなたは決して、「独り」では無いと、私は言いたい。

 

 だが、事実としては、私たちはみんな「独り」だ。誰もが「自分自身」を生きている。他人と一緒に生きているようでも、実際に他人を生きることはない。私たちはみんな「独り」として生まれ、「独り」として死ぬ。

 だから、恐い。あまりの「孤独」に震えてしまう。

 でも、その「孤独」は、これまで無数の人が通り抜けてきた「孤独」なのだ。あなたが「行き止まり」だと思っているその「暗闇」も、何千年も昔から、数え切れないほどたくさんの人たちが、くぐり抜けてきたものなのだ。

 

 あなたは決して「独り」では無い。誰もが「独り」であるという意味で、あなたと私は「同じ」なのだから。

 あなたは私と同じだけ「独り」として生きている。私たちはいつだって本当は「対等」なのだ。

 

 私は技法の実践を誰彼構わず勧めようとはまったく思わない。

 なぜなら、「本当に自分から求める用意のある人」以外には実践を続けることなど不可能であると、私は痛いほど、それこそ「死ぬ寸前」まで痛むほど、よく知っているからだ。

 

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