「秘密」は存在しない

 このところ、ご縁のあった方たち数人と個人的にやり取りをする中で、「ひょっとすると、私がやっていることというのは、他人にはものすごく理解しにくいことなのかもしれない」という風に改めて感じた。

 私自身の主観としては、自分のやっていることや伝えたいことは「これ以上、当たり前なことはない」というくらい当たり前のことなのだが、「当たり前のこと」をそのまま見るというのは、やはり難しいものだ。どうしてもそこに「何か隠されているのではないか?」と、人は勘ぐってしまうからだ。

 

 私は何も隠してはいない。言葉にできることは全てそのまま「事実」だけを言っている。問題は、私が「どうしても伝えたい」と思っていることを、言葉にはできないということだ。

 私は別に、「本当に言いたいこと」をあえて隠しているわけではない。ただ、「それ」だけはどうやっても言う術がないので、間接的な手段を使っているだけだ。その間接的な手段というのが、「技法」だ。

 もしも技法を実践すれば、私の中にある「言いたかったのに言葉にできなかったこと」は自然とわかる。時間はかかるかもしれないが、必ずわかる日が来る。そうしたら、もはや私の言葉を頭で理解する必要さえなくなるだろう。

 そのとき、「秘密」など最初からどこにも存在していなかったということが、その人にはわかるはずだ。「それ」は最初から「目の前」にあった。ただ、「それ」をありのままに見ないで、「何かが隠されているに違いない」と思うから、私の言葉をあれこれ解釈したり、理論として覚えたりといった「誤解」をすることになるだけなのだ。

 

 私は「そもそも言葉にできないこと」を言葉で伝えようとは思っていない。それが不可能であることはもう知っているからだ。だから、「言葉にできないこと」についてはほっておいて、技法を実践してもらうことを私は優先する。

 別に私が考案した技法でなくたって構わない。その人が(私を含めた)全ての他人に寄り掛かることをやめて、「自分自身」を生きるための助けになる方法なら、何でも役に立つ。

 逆に、他人に「自分の責任」を代わりに取ってもらいたくて技法を実践しているような人に対しては、私は技法をあえて取り上げることもある。なぜなら、自分から逃げるために技法を実践することは、その人のためにならないからだ。技法は、自分から逃げるために実践するものではない。それは本来、自分と直面するための方便なのだ。

 

 しかし、「あなたに責任はない」という「嘘」を語る指導者も世の中にはいる。「私を信じてついてくるなら、私があなたを救ってあげよう」と、そういった人々は語りかけてくるが、「自分の責任」を自分で背負うのが恐くなると、私たちはこういった人たちに容易く騙されてしまう。

 そして、「自分の足」で歩むことを止め、指導者が敷いたレールの上を「自動運転」でどこまでも流されていく。それによって、私たちは「自分で感じ、自分で考える」という在り方を進んで放棄するようになり、「他人の言ったこと」に盲目的に従うことで、「指導者にとって搾取しやすいロボット」へと、徐々に変えられてしまうことになるのだ。

 

 技法はあくまでも「自分自身」で実践するものであって、やるもやらないも100%本人の「自由」だ。そして、だからこそ、「本当の実践」というものは尊い。そこには、100%純粋な「本人の自発的な意志」が存在するからだ。

 私はそのような「自発的な選択」をどんな人からも奪いたくない。全ての人に、ちゃんと自分で選んで欲しい。そうでなければ、たとえどれほど善行を積もうとも、社会的に成功を収めようとも、私たちは自分の人生に満足も納得もできないと、私は知っているからだ。

 

 この世の誰も、「他人の言いなり」になるために生まれてはこない。誰もが「自分自身」を生きるために生まれてくる。もし私たちが「誰かのため」に生まれてきたのだとしたら、私たちは「家畜」か「ロボット」のようなものに過ぎなくなってしまう。

 しかし、もし他人が「お前は私たちを満足させるためにこのような生き方をしなければならない」と言って、「利他行」を押しつけてきたとしても、私たちはそれに反抗する「自由」を必ず内側に持っている。そのような「反抗」はとても尊い。私は、私の言うことにただ追従するだけの人の中に、そういった尊さを見出すことができない。むしろ私は「どうして反抗してくれないのだろう?」と思うことさえある。私なんかの言いなりになっていて、どうして満足していられるのだろう?

 私には不思議で仕方がない。

 

 「他人にとって便利なロボット」になることを誰も彼もが推奨するので、「人間であろう」と意志し続けるのは、並大抵のことではない。でも、「ロボット」になることで購った薄っぺらな安心で、あなたは本当に満足できるのだろうか?

 「ロボット」のまま生きた時間はもう二度と返ってこないというのに、そのような生き方をして死んでいくことになったとき、あなたは後悔せずに死ねるのだろうか?

 

 私に「反抗」するならしてもいい。「憎い」と思ったら憎んでもいい。

 ただ、どうか「ロボット」にだけはならないでほしい。

 私には他に、「言いたいこと」はない。

 

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