思考を観察する技法

・「思考」という「覆い」

 さて、今回からは、「感覚」「思考」「感情」という私が提示する三つのアプローチの二つ目、「思考」に関連する技法の解説をしていこうと思います。

 ただ、実のところ、「感覚を深める技法」を語る中で、「思考」についても既にいくらか説明は済んでしまっています。そもそも、私たちの「思考」とまったく無関係な技法というものは存在しません。むしろ、「思考をどうにかするための方便」のことを「技法」と定義してもいいくらいです。それくらい「思考」と「技法」は切っても切れない深い関係にあります。

 しかし、なぜ「思考」と「技法」とがそれほどまでに深く関連し合っているのでしょうか?

 

 もう一度、私がこの講義を始める際に書いたことを思い出してみてください。私は第二回目の講義で、技法の目的を「『我が家』に帰り着く道を実践者自身が見つけ出せるようになること」と書いたのでした。

 「我が家」というのは象徴的な表現ですが、意味するところとしては、「本来の自分」のことです。社会によって歪められる前の「無垢な自分」と言ってもいいと思います。

 もし私たちが、生まれたばかりの頃のような「まっさらな心」を持ち、後天的に学習した知識や行動規範などによって曇らされていない「新鮮な目」を通して世界を見ることができたなら、そのとき私たちは「我が家」にいます。そして、「本来の自分自身」に定まることで、深い安らぎと情熱的な活力とが私たちの心身を徐々に満たしていくようになるのです。

 

 しかし、私たちが生きていく過程で、このような「無垢な在り方」は忘れ去られていくことがほとんどです。全ての子ども達は、大人の手によって教育を受けることで、多くの知識を内側に蓄積し、技術を習い覚え、いろんな他人の模倣をしてそのパターンを学習していきます。こういった「知識」や「技術」や「他人のパターン」といったものが「覆い」となって、私たちは徐々に「本来の自分」を見失ってしまいます。そして、やがては、どれが「本当の自分」でどれが「表面的な演技」なのかさえわからなくなってしまうのです。

 技法は、そのような「覆い」を取り払い、私たちを「真の自己」と直面させてくれます。私たちが定まっていくべき「本当の自分」とは何かを、技法は教えてくれるのです。

 

 そして、私たちが「真の自己」と直面することを妨げる「覆い」の中心となっているものこそが、「思考」です。

 私たちの内側では、無数の「思考」がいつも跳び回っています。そして、その声があまりにも騒々しいので、私たちは自分の内側深くへと潜っていくことができないのです。

 技法を実践することで、私たちは自分の内側の世界を一歩ずつ「探険」していくことになるのですが、そのとき「最初に直面する事実」がこれです。つまり、いかに自分の中が「取り留めの無い思考」によって溢れかえっているかということです。

 実際、この講義で紹介した「内観法」「呼吸法」を数十分にわたって実践していると、「内観」や「呼吸」が深まっていく以前に、「そもそも頭の中がうるさすぎてまったく集中できない」ということに、私たちは気づくことになります。

 嘘だと思ったら、試してみてください。たとえば、目を閉じたまま15分ほどジッと坐って何もしないでいてみたら、私に言っていることがきっと実感できるでしょう。何もせずジッと坐っていると、私たちは「自分の思考」にとことん悩まされることになります。なぜなら、「何の意味も脈絡も無い思考」が、私たち自身の意思とは関係なく、ジッと坐っている間中、次から次に湧いてくるからです。

 

 何かしらの瞑想法や精神集中にかかわるメソッドなどをこれまでに実践したことのない人であれば、おそらく「15分坐っているだけ」でも、かなり消耗すると思います。「ただ坐っているだけ」ということがこんなにも苦しく、疲れるものだとは、実際に試す前はきっと想像もつかないでしょう。

 もしこの講義を読んでいる方の中に、実際に「内観法」や「呼吸法」を実践し始めて、「自分はまったく集中力がない、きっと素質がないんだ」という風に悲観している人がいたら、「最初は例外なくみんなそういうものですから、大丈夫ですよ」と私はお伝えしたいです。「自分の身体を感じる」とか「呼吸に意識を向ける」とかいった、ごくごく単純なことをするだけで、私たちは心底くたびれてしまうものなのです。

 「こんなに疲れるなんて、ひょっとしてやり方が間違っているのだろうか?」と疑問に思う人もいるかもしれませんけれど、始めたばかりの頃にそんな風に疲れるのは、むしろ「正しく実践できている証拠」です。なぜなら、自分の内側を真剣に観ようとしないで、なんとなく形だけなぞっている人は、そういう疲れを感じないからです。「こんな簡単なことはわけもない。真面目にやるだけバカバカしい」と高を括っていて、ちゃんと実践する気持ちがまったくない人は、15分どころか、おそらく5分もしないうちに「やめたやめた、くだらない」と言って自分で勝手にやめてしまうでしょう。

 こういう人は、当たり前ですが疲れません。反対に、もし疲れるなら、その人は「ちゃんと疲れるところまで自分自身を見つめようとした」ということです。

 

 多くの人は、「技法に集中する」ということを軽く見過ぎていると私は思います。「自分は集中しようと思えばいつでもできる」と世の中の多くの人は思い込んでいますが、技法を一度でもちゃんと実践したことのある人はみんな「そんなことはない」と知っています。

 私たちはほぼ例外なく「まったく集中できない人間」です。「こんなに不注意でいて、よくまあ普段の生活で交通事故に遭ったり、食べ物を喉に詰まらせたりしないものだ」と、きっと誰もが驚き呆れるのではないかと私は思います。

 

 ただ、それほど文明化されていない原始的な生活を送っている人たちは、おそらく技法をわざわざ実践しなくても、比較的簡単に集中することができるだろうとは思います。なぜなら、そういう人たちの場合、集中を妨げる「思考」が内側にそれほどないからです。

 まず第一に、彼らは非常に「単純な生活」を送っているので、現代的な文明社会に暮らす私たちほど「複雑なこと」をたくさんこなす必要性がありません。「覚えなければならないこと」や「守らないといけないルール」も私たちほどないため、頭の中に「思考」が蓄積しにくいのです。

 また、彼らは頭より身体を使うことが多いため、たとえ内側に「思考」がいくらか溜まってきても、身体をたくさん動かすことで自然と頭が空っぽになります。それゆえ、原始的な生活をする人々にとっては、集中するのも私たちほど難しくはないのです。

 

 スポーツを日常的にしている人はたぶん知っていると思いますが、身体を思い切り動かした後は、頭の中がスッキリするものです。身体は疲れているはずなのに、なぜか爽快感がある。それは、いつも頭にばかり偏っていたエネルギーが、運動を通して身体全体に流れたからです。身体全体を使うような運動をした直後には、それまで頭にくっついていた「思考」という重荷から、私たちは一時的に解放されます。

 こういうとき、私たちは「新鮮な気分」で世界を眺めることができるものです。なぜなら、そのときだけは、「思考」という「覆い」が私たちの意識から取り除かれているからです。

 

 運動を通して、寝ても覚めても内側で続いていた「おしゃべり」が一時的にやむことで、私たちは「思考」というノイズを介在させないで、物を見たり音を聴いたりすることができるようになります。そんな時は、いつもだったら何でもない景色がとても色彩豊かに見えたり、普段だったら聞き逃すような鳥の声がやたらと胸に響いたりして、なんだかウキウキした気分になることさえあります。ただ身体をくたくたになるまで動かしただけで、私たちは不思議と上機嫌になり、いつもなら許せないことでも簡単に許せてしまうほど寛大になる。

 それゆえ、スポーツをある程度以上真剣にやっている人は、だいたいにおいて明るい性格をしています。「他人と競争して大会で優勝したい」という欲がある場合は別ですが、自分自身の楽しみとしてスポーツをしている人は、朗らかで寛大なことが多いです。それは、身体をたくさん動かすことによって、彼らが「頭の重荷」を定期的に下ろすことができているからなのです。

 

・「思考」と「眠り」

 頭ばかり使っていると、私たちは何もしていなくても消耗します。頭の中で「思考」が絶えず鳴り響いていると、私たちは「休む」ということができません。たとえ身体を動かさないでいても、というよりむしろ、身体を動かさないでいるとさらに疲れます。身体を動かしていれば気も紛れますが、身体を動かさなくなると「自分の思考」から逃げられなくなってしまうからです。

 先ほど私は、「何もしないで15分坐っているだけでも私たちは疲れるものです」と言いましたが、それは身体の動きを止めることによって「思考」に全てのエネルギーが注がれるからです。こういった場合、「思考」によって私たちのエネルギーはことごとく浪費されてしまい、「くつろぐこと」などまるでできません。

 

 たとえば、仕事の休憩時間などにいくら身体を休ませていてもまったく疲れが抜けないことがあるのは、このためです。私たちは、身体の動きだけ止めたところで、必ずしもそれで「休息」ができるわけではありません。たとえ外側の身体は動いていなくても、内側で「思考」が絶えず跳び回ることで、せっかくのエネルギーがどんどん使われてしまうからです。

 これは医学的に証明されている事実ですが、私たちの肉体的な疲労は、寝ても寝なくても回復にほとんど差は無いそうです。肉体疲労の回復に必要なのは、「純粋に物理的な時間」だけであって、睡眠は関係ないというのです。

 それならどうして私たちは毎日眠らないといけないのでしょう?

 それは、眠りを通して「思考」による汚染を浄化する必要が私たちにはあるからです。「身体の疲労」は眠らなくても取れますが、「頭の疲労」は寝ないと取れないのです。

 

 私たちが生きていると、「思考」は知らず知らずのうちに私たちの内部へ蓄積していきますが、眠りは二つの仕方でこれを無害化してくれます。

 一つは、深い眠りの中で、「思考」が自然と停止することです。私たちが深く眠ると、それまでずっとぺちゃくちゃと内側で喋り続けていた「思考」が沈静化します。それによって私たちは、激しい運動の後のような「無思考」の状態で、頭を休ませることができます。起きているときにはまったくできなかった「くつろぐこと」が、つかの間ですが、深い眠りの中で可能になるわけです。

 

 ちなみに、深い瞑想状態の中でも「思考」は沈静化しますので、技法の実践を積み重ねていけば、起きた状態でも「くつろぐこと」が徐々にできるようになっていきます。たとえ深い眠りに入らなくても、頭を休ませることができるようになるわけです。

 しかし、実践を始めたばかりの時は、むしろ実践に集中しようとすることで疲れてしまうことのほうが多いですから、「くつろぐこと」はなかなかできません。その場合、深い眠りの中で「休息」を得なければ、私たちは「思考」からまったく解放されず、疲れが抜けなくなってしまうでしょう。

 

 これが、眠りによる「思考」の無害化の一つです。つまり、深い眠りの中で、常に私たちにつきまとって離れない「思考」から解放されることで、私たちは再び「新鮮さ」を取り戻すことができるということです。

 そして、眠りによって「思考」を無害化するもう一つの仕方が、「夢」です。

 そもそも私たちが眠っているとき、眠りの深さは一定ではありません。眠りの浅いときと深いときとが、周期的に入れ替わって現れるのは、周知の事実ですが、私たちが「夢」を見るのは、この「眠りの浅い時間」においてです。

 「夢」を見ているとき、私たちは「半意識・半無意識」とでもいったような「中間地点」にいます。完全に意識的でもないし、完全に無意識でもない。それゆえ、起きているときの意識状態だと思考できなかったことを、私たちは「夢」という形を通して思考することができるようになるのです。

 たとえば、昼間に「殴りたい」と思った相手がいたら、夜眠っているときに「誰かを殴る」とか「誰かから殴られる」とかいった「夢」を見ることがあります。自分が「他人を殴りたい」と思っていることを起きているとき意識的に認めることができなかった場合、その「殴りたい」という衝動は解放されずに持ち越されます。「自分はそんなことを考える人間ではない」と本人が思っていると、内側には「本物の衝動」があるのに、それを自覚的に手放すことが不可能になるためです。

 しかし、「本物の衝動」を手放さないでいると、遅かれ早かれそれは「重荷」となって本人を苦しめることになってしまいますから、どうにかして処理する必要があります。そして、基本的に私たちは、「夢」を通してこういった「果たされなかった想い」を処理することになるのです。

 「夢」の中では私たちは「半意識・半無意識」の状態にありますから、起きているときには認めることができなかった「自分の衝動」を、意識的にちゃんと見ないまま完結させることができます。たとえば、昼間の段階で「殴りたい」と思った相手とは別な人間を殴ったり、自分を殴られる側にしてみたり、何か物を壊すといった形に変換したり、あるいはもっと複雑でわかりにくい表現へと「加工」することによって、私たちは「ある人を殴りたいと思った」という事実を意識的には認めないまま、「夢」を通してこれを流し、捨てていくことができるのです。

 

 私たちの眠りが浅いとき、もしも私たちが夢を見ていると眼球が激しく動きます。前回も書きましたが、「思考の動き」と「目の動き」は関連し合っているので、「夢」を見ているときも目が動くのです。

 それで、こういった「思考」と「目」との関連に着目して、私たちの眠りについて研究するために「目の動きを記録する装置」が開発されました。そして、その装置を使って多くの実験がおこなわれたのです。

 そういった実験の一つに、こんなものがありました。それは「夢見」が阻害されると人間に何が起こるのかを調べた実験です。この実験では、眠っている人間の眼球の動きを記録しつつ、目がそれほど動いていないうちは眠ったままにし、目が激しく動き出したら、つまり「夢」を見始めたらすぐ起こすということをしてみたのだそうです。

 すると、興味深いことがわかりました。「夢」を見始めたときに毎回すぐに起こされた人は、「夢」を見ていないときに起こされた人と比べて明らかに衰弱の度合いがひどく、最終的には徐々に発狂していったのです。

 「夢」を見始めては起こされ、また寝るということを繰り返すので、「睡眠時間が足りない」というわけではありません。ただ、「最後まで夢見ること」を許されなかっただけです。「夢見」を阻害されただけで、私たちは簡単に発狂してしまいます。たとえ寝ている時間そのものは長くても、「夢」を見ることができないと私たちは精神の平衡を保てないのです。

 

 技法を実践していくことによって、私たちは「自分」に対して徐々に意識的になっていきます。「自分の中でどんな衝動が起こっているのか」とか「どのような思考が渦巻いているのか」といったことを、自覚することができるようになっていくのです。

 そして、そういった「内側の事情」を意識化できるようになると、私たちは徐々に「夢」の中でそれを処理するということをしなくて済むようになっていきます。実際、真に熟達した瞑想のマスター達は眠っても「夢」を見ないということが、インドでも中国でも昔から言われています。

 私たちに「夢」が必要なのは、それだけ私たちが無意識に生きているからです。「自分が何を抱えているのか」を自覚せず、「どうしてそれを抱えたままでいるのか」を理解できないでいることによって、私たちは「自分の重荷」を意識的に手放すことができなくなっていきます。そうして無意識のうちに溜めてしまった「重荷」を下ろすために、絶えず「夢」を見なければならなくなるのです。

 

・起きている間も「夢」は続く

 私たちの「思考」は起きている間だけでなく、寝ている間も続いています。私たちが「夢」を見るというのは、そういうことです。

 そして、「夢」をたくさん見れば見るほど、「思考が消えるほどの深い眠り」は圧迫されていくので、私たちは寝ても寝ても疲れが抜けなくなります。俗に言う、「眠りが浅い状態」に陥るのです。

 さらに、もし寝ている間に見る「夢」だけで足りなくなったら、起きている間も私たちは「夢」を見るようになっていきます。「そんな馬鹿な」と思うかもしれませんけれど、これは「本当のこと」です。

 

 たとえば、「何をするときにも上の空で、気がつくとぼんやりしている」という経験をしたことはありませんか?夜は寝ているはずなのに、疲れが抜けない。いつも頭が重くて、気分が晴れない。

 そういう場合には、内側に溜まった「思考」が、眠りの中で処理できる限界を超えてしまっている可能性があります。それゆえ、起きているときにも、まるで「夢」を見ているかのように「上の空」になってしまうのです。

 こういう状態の時は、たとえ誰かが話しかけてきていても、本人としては「目の前の相手の話」に耳を傾けることより、「自分の中に溜まった思考」を除去することのほうが優先順位が高いので、まともに他人の話を聞けません。「他人の話」を理解する前に、「内側の独り言」をまずはなんとかしないと、精神の平衡が保てないからです。

 そして、内側に溜まった「意識化したくない思考」をどうにかして処理するためには、起きている間も「半意識・半無意識」の状態にならないといけません。あたかも「起きているのに夢の中」。「上の空」というのは、まさにこのような状態のことです。

 

 私たちは、誇張ではなく、文字通り「寝ても覚めても」、考え事に夢中です。試しに、自分が内側でどれほど「取り留めの無い考え事」をしているかを、一日かけてじっくり観察してみるとこのことはよくわかります。

 私たちが日常的な作業をこなしているとき、内側では「脈絡のない思考」が無秩序に走り回っています。そういった「今すぐ考える必要の無いこと」によって気を逸らされ、私たちは目の前の作業に集中することを何度も妨げられます。外側の身体は機械的・無意識的に「いつもの作業」をこなしながらも、内側では作業とは関係のない「独り言」をずっと喋り続けている。

 寝ても覚めてもそんな状態で生きていたら、疲れないほうがおかしいと思います。

 

 この「絶え間ない思考」をどうにかしない限り、私たちは「自分自身」に定まることはおろか、人生に対して「肯定的な見方」をすることさえできません。「思考」によって常に多量のエネルギーを浪費し続けていると、「生きるというのは、なんて疲れるものなのだろう」と感じることを避けられないので、本人の目には全てがくたびれて陰鬱に見えてしまうからです。

 そして、「内側の独り言」にあまりにも気を取られてしまうと、目の前の世界を直に感じることが著しく阻害されることにもなりますから、「生きている実感」が乏しくなります。当人は、なんだか自分が「ロボット」になってしまったように感じ、あたかも「他人の人生」を生きているかのような気分になっていきます。「現実感」がどんどん薄れていってしまうのです。

 

 考えるばかりの哲学者や思索家が、一様に暗い表情をしていることが多いのは、偶然ではありません。彼らは「思考」によってエネルギーをすっかり浪費してしまっており、生きることを楽しむための「生命力」がほとんど残っていないのです。

 「無秩序な思考」は、「苦悩」や「悲観主義」の温床です。どうにかしてこれを沈静化しないと、私たちは「自分の生との接触」を失ってしまいます。

 

 そして、「無秩序な思考」を沈静化するための方便こそが、技法です。

 ここまで、「思考に関する基本的な事柄」をいくつか確認してきましたが、今回は「思考を静める上で役立つ技法」を一つだけ紹介して、ひとまず筆を置こうと思います。「思考が静まると何が起こるのか」ということや、「思考を静めるために日頃からどんなことを心掛けるべきなのか」といったことについては、次回以降、また解説していくつもりです。

 今回のところは、「私たちがいかに『思考の奴隷』であるか」ということを、なんとなくでも感じてもらえたらそれで十分です。

 

<耳を澄ませて思考を静める 「傾聴の技法」>

  • 楽な姿勢で坐り、目を閉じる。場所は、できたらあまり騒がしくないところのほうがよい。
  • その状態で、耳に入ってくる音を全てそのまま聴くように努める。「何の音か」と解釈したり、「聞くべき音」と「聞かなくてよい音」という風に分別したりせず、聞こえたまま、音を内側に吸い込んでいく。
  • 頭だけで音が響かないよう、首から下の部分に音が吸い込まれて落ちていくイメージを持って、ひたすら耳を傾ける。
  • どうしても「近くの音」が気になる場合は、「遠くの音」に意識の焦点を合わせてみるのもよい。

 

 これは、誰でも比較的容易にできて、かつ、あまり場所を選ばない技法です。

 どこでもいいので、目を閉じて、ジッと耳を澄ませる。耳に入ってくる音を、解釈したり分別したりせず、そのまま聴く。まるで、自分が「宇宙の中心」になり、そこに向かって全ての音が落ちてくるようなイメージで、ひたすら「やってくる音」を受け容れ続けます。

 ただ、街の喧騒などに対しては、私たちは普段の習慣から「うるさいな」と反射的に解釈や分別してしまいやすいので、この技法に慣れないうちは静かなところで実践するほうがいいと思います。この技法の主な目的は「思考を静めること」なので、「この音は何々の音だ」という解釈や、「そんな音を生み出す人々や社会は許せない」といった分別によって、かえって「思考」が増殖してしまうと実践が余計に困難になってしまうからです。

 初めのうちは、山の中や川の近くなど、豊かで静かな自然音が溢れているところで一人きりでおこなうのがいいでしょう。あるいは、ヒーリング・ミュージックや瞑想用の音楽など、落ち着いた雰囲気を作り出すことを目的にした音楽をかけて、それに聴き入るというのも慣れない間は助けになります。

 慣れてくれば、「音に対する解釈や分別心を落として、ひたすら聴き入る」ということが徐々にできるようになっていくので、たとえ「外側」には騒音が溢れていても、「内側」は静かなままでいられるようになっていきます。興味のある人は試してみてください。

 

 ひとまず今回はここまでにします。

 次回は、さらにもう一歩踏み込んで「思考」について解説をおこないます。

(2018年10月4日加筆修正)

 

 前へ

 次へ