思考を観察する技法・まとめ

・まずはおさらい

 前回前々回とで、「思考」についていくつかの事柄を確認してきました。

 まず、私たちは普段「無秩序な思考」を絶えず内側で繰り返しているということでしたね。「考える必要の無いときに、考える必要の無いことを、デタラメな仕方で考える」ということを、私たちはそれこそ一日中、無意識に繰り返しており、このような「不必要な思考」によって自分のエネルギーを浪費してしまっている。また、「不必要な思考」が絶えず私たちの気を逸らしてしまうと、「今ここ」の世界をありのままに感じることも私たちにはうまくできなくなっていきます。

 こういった「無秩序な思考」は、「全身を使った激しい運動」や「深い眠り」、それから「夢」の中で解消され、無害化されていくことになります。しかし、現代人は身体を使うことが少ない人も多いので、「思考」が内側に蓄積しやすく、それを「眠り」の中だけでは処理しきれなくなってしまいがちです。それゆえ、寝ている間に処理しきれなかった「思考」が起きている間にも残存し、寝ても覚めても「頭の中」がうるさくて仕方なくなってしまう。

 こういった状態から抜け出るためには、「身体をたくさん動かすこと」も大事ですが、「感覚に意識を向けること」が大いに役に立つ、という話でした。なぜなら、「感覚」を通して「今ここ」に深く根付くことで、「過去の記憶」と「未来の予測」に関連する「思考」が全て消失するからです。

 「無秩序な思考」が徐々に沈静化したとき、ようやく私たちは「必要なときに、必要なことを、明確な仕方で思考する」ということができるようになっていきます。そして、それこそが、本当の意味で「正しく思考する」ということなのです。

 

・「自分」は「思考」ではない

 すぐ上でも書きましたように、「無秩序な思考」を静めるためには、「激しい運動」「良質な睡眠」「感覚の意識化」が役に立ちます。

 しかし、そもそもそれらの「思考」はどこからやってくるのでしょうか?

 

 私たちは普段「私はこのように考える」とか「自分の意見としては」とかいった言い方をよくします。ですが、よくよく観察してみると、「完全に自分の中から生まれてきたオリジナルな考え」というものは、まるでないことがわかります。

 私たちが「自分の意見」を言っていると思っているとき、だいたいにおいて、私たちは誰かの口真似をしているだけです。また、私たちが取り留めなく「考え事」をしている時に脳裏をよぎる「思考」の数々も、私たちがどこかで誰かから聞いた言葉の組み合わせでできているものです。

 ついさっき読んだ本の一節や、SNSで見かけた一言、テレビでコメンテーターが語っていた意見、親や友人や教師や上司や、その他ありとあらゆる他人が語った無数の言葉たちが、私たちの中では木霊し続けています。それらは全て「外」からやって来たものなのですが、私たちは往々にして「これが自分の考えだ」という風に、主観的には感じている。言い換えれば、「自分のものではないもの」を「自分のもの」だと思い込んでいるのです。

 

 変なことを言いますが、たとえば「他人の身体」が深く傷ついているのを近くで見たとき、もしも私たちがその人の身体を「自分のものだ」と誤認したら、仮に「実際の自分の身体」が無事であっても、私たちはパニックに陥る可能性があります。

 「そんなバカなことあり得ないだろう」と思うかもしれませんが、こういったことは、幼い子ども達の間ではよく起こっています。たとえば、1~2歳くらいの子達が数人集まっている部屋で、誰か一人が転んで怪我をするなどして泣き始めると、他の子達も一斉に泣き出すことがあるのです。これは、幼児の自我が未発達で、「自他の区別」がまだついていないことによって起こる現象と言えます。「他人」と「自分」が同一化してしまっていて、「他人に起こっていること」と「自分に起こっていること」が区別できていないわけです。

 

 大人になってからも、「『自分でないもの』を『自分』だと誤認する」ということが、私たちにはよくあります。

 たとえば、わかりやすい例を挙げると、自分の「地位」や「肩書き」を「自分そのもの」だと思っている場合です。「地位」や「肩書き」というものは、別にそれをなくしたところで死にもしなければ、「自分」を失うわけでもありません。しかし、何かしらの理由でそれらに強く執着すると、「もしも今の『地位』と『肩書き』を失ったら『自分自身』はおしまいだ」と誤認してしまうことが、私たちにはあるのです。

 「自分でないもの」を「自分」と同一視し、「『それ』がなくなったら『自分』は終わりだ」と思い込んでいると、私たちは実際にそういった「『自分』として誤認された何か」を失いそうになったとき、パニックに陥ります。なぜなら、その「何か」を失ったら、「自分」も消えて無くなるように感じてしまうからです。それは、ほとんど「死の恐怖」と同等のショックを本人に与えることになるのです。

 

 私はこれまで、「無秩序な思考に取り憑かれる」とか「不必要な思考に掻き乱される」とかいった表現をしてきましたが、これは言い方を換えれば、そういった「デタラメな思考」と「自分」とが同一化している状態と言えます。

 私たちを掻き乱しかねない「思考」、たとえば「ああなったらどうしよう、こうなったらどうしよう」という漠然とした不安や、「どうしてあの時こうしなかったのだろう」という後悔の念、「自分はなんてダメなヤツなんだ」という自責の念などが、私たちの頭を占領してしまうことは、日頃の生活の中でもよくあります。こういう時、私たちはそのような「思考」が自分の中いっぱいに広がって、「自分」がまさに「その思考そのもの」であるかのように感じるものです。そして、他のことが全く考えられなくなり、「同じ思考」をひたすらなぞり続けてしまいます。

 私たちが「思考そのもの」になってしまっているとき、「思考」と「自分」の間の距離はゼロになっています。それゆえ、自分自身でも「自分がいま何を思考しているか」を冷静に観察することができない。それはあたかも、鏡に目を直接くっつけて自分の顔を見ようとするようなものです。これでは、頑張って見ようとすればするほど、余計に「自分」を見失って混乱していってしまいます。

 

 私たちの内側で生起する「思考」は、もともと私たちの外からやってきたものです。それが木霊となって、後から聞こえているだけです。そういう意味で、それは「自分」ではないし、たとえ「思考」を失っても「自分」をなくすことはありません。むしろ、「思考」と「自分」とを深く同一視してしまうことによって、私たちは一時的に「我を失ってしまう」のです。

 しかし、私たちは幼時に「自我」が芽生えた時から、「自分」と「思考」を同一視することをひたすら繰り返してきました。それゆえ、「『自分』と『思考』とを同じものとして見る」という在り方が、非常に根深い「習慣」になってしまっています。いくらここで私が語っていることを頭で理解したとしても、人によって、なかなか「『自分』は『思考』では無い、『自分』と『思考』は別だ」という風には感じられないと思います。

 しかし、私は自分の体験からはっきりと断言しますが、「あなた」は「思考」ではありません。たとえどれほど「邪悪で冷酷な思考」が浮かんできたとしても、だからといって、「あなた」が「邪悪で冷酷」だということにはなりません。なぜなら、「それ」はもともと「あなたの外」から来たものであり、「あなた自身」ではないからです。

 

・「言葉」と「思考」

 「自分が食べたもの」によって「身体」が作られていくように、「自分が取り込んだ言葉」によって「思考」は形作られます。つまり、私たちが普段どういう言葉に接して過ごしているかによって、「内側で生起する思考」は大きく変わってくるのです。実際、他人を非難したり、自分を傷つけたりするような言葉に普段から多く接していると、それだけ「内側の思考」も他罰的・自責的になりやすいものです。

 

 たとえば、もし私たちが「政治的な意見を乱暴な言葉遣いでぶつけ合う討論番組」を日常的によく観ていたら、私たちの内側にはどういう「思考」が根付くでしょうか?

 または、他人への苛烈な非難ばかりが書き連ねられているネットの掲示板などを日頃から閲覧し続けていたら、その人の内側にはどういう「思考」が生起しやすいでしょう?

 

 どういう言葉を語る人の本を読むか、どういう言葉を語る人たちと共に過ごすか、そういったことが「思考の形成」には大きく影響します。

 幼い子どもの場合は、「どういう言葉に触れて生きていくか」ということを、まだ自分で自覚的に選ぶことができませんが、大人になったら自分である程度選ぶことができます。それゆえ、もし私たち大人が自分の内側で生起する「思考」を変えたいと思った場合には、まず「自分が無意識にいつも取り込んでいる言葉」についてよくよく点検してみることが大事です。

 

 それなら、そうやって点検してみる際に、どういう基準を持って言葉を選んだら良いのでしょう?

 世の中を飛び交っている無数の言葉のうち、いったいどれを私たちは大事にするべきなのでしょうか?

 

 私が「提案」する基準はこうです。

 その言葉を取り込んだ後に自分の内側をよくよく観察してみて、「より自分の意識が明確になった」とか「頭や身体が軽くなった」とか「前向きな気持ちや活力が生まれてきた」とかいったように感じるなら、それらの言葉を大事にしてみてください。きっとそれらの言葉はあなたの感覚をより鋭敏にし、思考をもっと明晰にし、心身に活力を与えてくれるでしょう。

 反対に、ある言葉を受け取った後に、「なんだか意識が曖昧になった」とか「頭が重くなって身体がだるくなった」とか「イライラするような興奮を覚えて、いつの間にか息が荒くなっていた」とかいったことを感じる場合、それらの言葉はあなたにとって「毒」です。注意しましょう。

 というよりも、そもそも「毒」となるような言葉を受け取った直後は、私たちは「落ち着いて自分の内側を観る」ということができません。なぜなら、自分が受け取った言葉によって、既に深く掻き乱されてしまっているはずだからです。

 

 私がここで書いている文章も含めて、「他人の言葉」にはよくよく用心してください。「他人が語ること」を決してそのまま鵜呑みにはしないことです。そして、それら「他人の言葉」があなたを本当により豊かにするかどうかを、真剣に考えてみて欲しいと思います。

 たとえば、誹謗中傷で溢れかえったネットの掲示板などに日々入り浸っていると、たしかに「時間を忘れて興奮すること」はできるでしょう。そういった興奮は、まるでアルコール飲料のように、私たち自身が抱えている「自分の問題」を一時的に忘れさせてくれるかもしれません。

 しかし、その代償は高くつきます。というのも、私たちの「思考」はそれらの「他責的な言葉」によって、すっかり染まってしまうからです。そういった言葉は、読み終わった後も私たちを長く興奮させ、潜在的にイライラさせます。そうして、私たちの意識は曇り、自分や他人を責めずにはいられない「暴力的な衝動」が内側から突き上げてくるようになってしまうのです。

 

 恐いのは、そういった「暴力的な衝動」そのものは、紛れもなく「本人の生命力の発露」であるということです。それゆえ、「あいつが全ての元凶なのだ。これさえぶち壊せば、何もかもうまくいくのだ」という風に信じているとき、私たちは非常に活き活きとします。そして、そのような「活き活きとした高揚感」に依存して、ますます「他責的な言葉を語る人々の輪」の中へと、深くはまり込んでいってしまうことがあるのです。

 普段の生活の中で「生きている実感」を得ることができないでいる人ほど、このような「罠」にはまりやすくなります。特にネットの掲示板のような、自分の顔や名前を晒すことなく言葉を書き連ねることができる場所においては、私たちは自制が利かなくなりがちですから、そこでは「破壊的な衝動」をお互いにドライブし合うような「混沌とした状況」が出現することが多いです。

 

 このことは、次回以降、「感情についての技法」を扱う際にも言及するつもりでいることですが、私たちは大人になる過程で、そのような「暴力性」を内側に封じ込めるようになりがちです。

 「暴力性」というと、いかにも問題がありそうですが、それは本来「自分のやりたいことを、自分のやりたい仕方でやってみたい」という「独立心」が外側に表れたものです。しかし、子どもの頃にこういった「独立心」の芽が内側で出始めると、往々にしてその子は大人にとって「手に負えない存在」になりがちです。というのも、一度「やる」と自分で決めた子は、たとえ大人が「無理だ」と言っても聞かないし、「それをすると困る」と言って止めても、断行しようとするからです。

 それゆえ、このような「独立心」は、大人の側から「暴力的なものであり、抑圧すべきもの」と見なされて、ねじ曲げられてしまうことがほとんどです。子どもの側からしたら、別に「大人を困らせよう」という意図があるわけではなく、ただ単に「自分自身の内的な動機」によって、「イヤなものはイヤ。やりたいものはやりたい」というだけの単純な話です。しかし、もしも大人の側が「子どもの側を権力的に支配してコントロールしたい」という欲求を強く持っていると、子ども達の「独立心」を尊重することが大人達にはできなくなってしまいます。というのも、もし「権力の構図」によってのみ大人の側が子ども達を見ていると、子どもの「自発的な独立心の発露」は、大人が持っている権力を転覆させようとする一種の「暴動」のようにしか、大人の目には見えなくなってしまうからです。

 私たちの命の根源にあるのは、「とにかく何かを破壊したい」という「暴力性」ではなく、「もっと人として、生物として、強く大きく成長していきたい」という「独立心」のほうです。そして、この「独立心」は、たとえ危険を冒してでも前に進もうとするような「攻撃性(アグレッション)」という形で発露します。それゆえ、私たちが真に大きく成長していくときには、多かれ少なかれ「攻撃的」になるものです。

 

 私たちが日頃よく目にする無数の「暴力的な言動」というのは、基本的に、このような「攻撃的な成長への欲求」が何かしらの理由によって損なわれた結果として生み出されたものです。つまり、「何かをとにかく破壊したい」という「暴力的な衝動」は、もっと強く成長していくために「我」を主張し、これを押し通そうとする「攻撃的な独立心」が、外から抑圧され腐敗した結果として二次的に生じてきたものだということです。

 実際、「暴力的な言動」に取り憑かれているときの自分や他人のことをよくよく観察してみると、その根底には、「私はもっと自分らしく生きたかったのに、『あなた』はそれを許してくれなかった!」という強い恨みが存在することがわかります。つまり、「暴力的な言動」を通じて、私たちは「自分が本当に言いたいこと」を遠回しに言っているのです。それはつまり「私はもっと自分の可能性を開花させて、思い切り生きたい!」という、強烈なまでの「叫び」です。

 

 だからこそ、制度改革を訴えるデモ行進や革命的な活動に従事している人たちは、みんな活き活きしているのです。なぜなら、それによって「言いたいのにずっと言えなかったこと」を、間接的な仕方で、堂々と叫ぶことができるからです。実際、デモ活動や革命の意義について、自分自身で十分理解も賛同もしていないのに、「なんとなくみんなと一緒に叫んでいると気分が良くなるから」という理由だけで活動に参加している人たちも、世の中には少なくありません。

 それもまた、確かにその人にとっては「命の表現」です。そのことを私は否定しません。

 ですが、そのような活動が、本当に「自分自身の攻撃的な独立心」から起こっているのか、「鬱積した暴力的な破壊衝動」を一時的に発散するための方便に過ぎないのかについては、一人ひとりが自覚的であったほうがいいと思います。なぜなら、もし後者であった場合、私たちはそのような活動や思想に染まることによって、ますます「自分自身」を見失ってしまうでしょうし、「もっと成長するための機会」をそれと知らずに自分自身の手で破壊してしまうことにもなるでしょうから。

 

 ともあれ、私たちが日頃触れる「言葉」によって、私たちの「思考」は形作られます。そして、そのようにして作られた「思考」が、私たちの日頃の物の見方や価値観を決定するのです。

 自分が日頃から取り込んでいる「言葉」がどんなものであるか、そして、それらの「言葉」によって形成された「思考」を、自分はどのような「言動」によって外側に表現しているか、どうか意識して点検するようにしてみてください。

 そして、その点検の際に重視すべき「基準」については、これまでの講義を通して色々な仕方で私はお伝えしてきました。

 あなたをより「自分の中心」に落ち着かせるものや、他でもない「あなた自身の決意」をより明確にしてくれるものは全て、あなたにとって「善」です。

 反対に、もしあなたがより「自分自身」を見失い、簡単には自制が利かないほど暴力的になったり、容易に何もかも諦めて自暴自棄になったりするのであれば、それはあなたにとって「毒」です。

 

 私はここで、「善」という言葉を「役に立つ」という意味で使っています。つまり、「あなたにとっての善」とは、「あなたがより成長するための役に立つもの」のことです。

 私は、この意味においては、「善」の反対を「悪」とは呼びません。それは、ただの「毒」です。

 

・「善」と「毒」との見分け方

 これが、「激しい運動」「良質な睡眠」「感覚の意識化」と並んで、「思考」に関して日常的に意識して欲しいもう一つのポイントです。

 それはつまり、「日頃から自分が触れる言葉」についてよくよく吟味するということです。具体的には、何か外から言葉を受け取った直後に自分で内側を観察してみて、「活力」が心身に満ちているかどうか、「中心」に静かに定まっている感じがするかどうか、「決意」がより明確になっているかどうか、こういった点を確認するように習慣づけて欲しいのです。なぜなら、そういったことを感じられる言葉は、きっとあなたをより成長させてくれるような「純化した思考」の原料となるはずだからです。

 そして、上記のような「内的な基準」に則って、「自分にとって善だ」と感じる言葉を語る人々や本を見つけたら、意識的にそれらにもっと近づくようにしてみてください。というのも、それによって、「自分で意識的に選んだ言葉」が私たちの中に深く入っていき、私たちの日頃の考え方や物の見方、さらには振る舞い方までも少しずつ変えていくことになるからです。

 逆に、「内的な基準」に則して「毒」だと感じた言葉からは、意識的に距離を置きましょう。そして、できるだけそのような「毒」を自分の日頃の言動で表現しないように努めてみてください。なぜなら、もし「受け取った毒」を自分自身でも繰り返し表現し続けてしまうと、私たちはますますそれに染まっていってしまうからです。

 

 ここで忘れないでいて欲しいことは、「言葉の内容」は関係ないということです。つまり、「相手が何を言っているか」を頭で考えることは二の次にして、「どういう仕方で言っているか」をこそ心と身体で感じ、「善」か「毒」かを判断するようにして欲しいのです。

 たとえ、「論理的に語られた立派な言説」のように表面的には見えたとしても、それに触れた後に、自分の中に「曖昧さ」や「暴力的な興奮」、「いじけた気持ち」が湧き起こるなら、その言葉はあなたにとっては「毒」です。たとえどれほど多くの人が信じている思想や信条であっても、「自分にとっては受け容れがたい」と心と身体で感じた場合は、「他人の意見」より「自分の感覚」を信じたほうがいいです。

 反対に、「言っていることはあちこち矛盾していて、何が言いたいのかもよくわからないけど、不思議と温かい気持ちになれる言葉」を見つけたら、それがあなたにとっての「善なる言葉」です。大事にしましょう。

 言い換えれば、「善」とは「自分を活かすもの」であり、「毒」とは「自分を損なうもの」のことです。そして、それらについて見極めたかったら、とにかく「自分の感覚」を信じることが大切です。なぜなら、何が「善」で何が「毒」かは、わざわざ他人に聞かなくても、自分の心がちゃんと知っているものだからです。

 

 このように「善」を求めて「毒」を退けるよう意識して生活することによって、私たちはよりいっそう「善なる言葉」のほうに吸い寄せられるようになります。そうしてやがては、「毒」に多少触れることがあっても、それに影響を受けなくなっていきます。

 なぜなら、「善なる言葉」に何度も繰り返し触れ、それを「普段の自分の言動」を通して表現し続けることによって、自分自身がそのような「善」の発信源になっていくからです。このような状態まで行き着けると、「毒」に対する抵抗力もついてくるので、自分のことを損なうような「言葉」や「思考」に煩わされることも減っていくだろうと思います。

 

・「思考」から距離を置く

 これまでの講義で述べてきた「激しい運動」「良質な睡眠」「感覚の意識化」などは、「騒がしい思考」をなんとか静かにするための方法でしたが、「取り込む言葉を選び、自覚的にそれを育てること」は、「思考の質」そのものを改善するアプローチと言えるでしょう。 

 こういったいくつかのポイントを押えて日々の暮らしを続けていると、「自分の思考」に取り込まれて我を失うことが、徐々に減っていくと思います。

 そしてこれは、言い方を換えると、「『自分』と『思考』とを同一視しなくなる」ということです。つまり、「自分」と「思考」との間の距離が開いてくるのです。

 

 このような距離ができてくることで、私たちは「思考を観察する」ということができるようになっていきます。これは、「『思考』を『自分そのもの』として誤認することがなくなっていく」という風にも表現できます。

 そして、距離を取って「思考」を眺められるようになることによって、私たちは自分でも驚くほど多くの「苦悩」から容易く逃れることができるようになっていくのです。

 

 たとえば、「自分はダメだ」という自己嫌悪や、「あいつのことがホントに許せない」といったイライラした気持ちに悩まされることは、私たちにはよくあることです。しかし、それらの「思考」によって現に悩まされているにもかかわらず、私たちはしばしばそこから離れることができません。そういう時は、まるで自分で自分の傷口を抉り続けるように、私たちは「同じ苦悩」を何度も何度も内側で反芻してしまうのです。

 こういった現象は、「思考」と「自分」が同一化してしまっているときに起こります。たとえば、「自分はダメだ、自分はもうおしまいだ」といった「自己否定的な思考」が湧いたとき、もしそれとの距離がゼロになってしまうと、私たちにはどうやってもその「思考」を手放すことができなくなってしまいます。私たち自身が、「自己否定的な思考そのもの」になってしまっているからです。

 もしこのような「苦悩」から抜け出そうと思ったら、「自己否定の声」と「自分自身」との間に距離を作り出さなければなりません。そうすれば、「ああ、今の自分の中には、『そういう声』もあるんだな」とだけ認識して、あまり影響を受けずにいられます。

 

 たとえば、こんな経験はありませんか?

 一年ほど前に、何かちょっとしたことでひどく悩んだことがあったとします。でも、自分ではそのことをもう覚えていない。自分で書いた昔の日記やブログを見たとか、知人とその頃の話をしたとかいったことがきっかけとなり、「そういえば、そういうこともあったなぁ」と、たまたま思い出したのだけれど、当時の苦しみが実感を伴って思い出せない。

 こういう場合、自分の経験として確かに記憶はしているけれど、当時のような「切迫感」や「絶望感」のようなものは、もうなくなっています。時には、「どうしてこんな些細なことでそれほど深く悩んでいたのだろう?」と思って、首をかしげてしまうこともあります。まるで「自分に起こったこと」を「他人事」のように遠くから眺めているような、妙な感じがします。

 

 「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見ると喜劇になる」と言ったのは、たしかチャップリンだったと思いますが、こういったことを自分で体験すると、実際にそのように感じるものです。

 私たちは、自分で自分のことを笑ってしまいます。「なんて小さなことで、自分は苦しんでいたのだろう」と思って、つい笑ってしまう。

 そして、時にはそんな自分のことが愛おしく感じられる場合もあります。なぜなら、「こういう些細なことに悩みながらも、そのときの自分はとにかく懸命に生きていたのだな」ということが、時間という距離を置いたおかげで、落ち着いて観られるようになるからです。

 「過去の自分」に限らず、「身近な他人」や「遠い国の人々」、あるいは「他の時代に生きて死んでいった人々」さえも、「苦しみを抱えながら、とにかく自分の人生を懸命に生きている」という在り方は、みんな同じです。そして、「苦しみながらも一生懸命に生きている人の姿」というのは、時に私たちの心を、深く、静かに打つものなのです。

 

・「同化」の末路

 私は、人間の意識の状態には「三つの段階」があると考えています。それは、「分離」「同化」「乖離」の三つです。

 これは私が提示している技法体系にとって、非常に重要な概念なのですが、読者の方はここまでの説明でこれらが何を意味するのかが、既にある程度理解できるようになっているのではないかと思います。

 「同化」というのは、ここまで何度も述べてきたような「『自分』と『自分でないもの』とが同一視されてしまっている状態」のことです。そして、ここから「多くの苦悩」、それも「無用な苦悩」がいたずらに生まれてくることになるわけです。

 

 問題は、「分離」と「乖離」の違いです。

 そもそも、人によっては私のここまでの説明で、「そうは言っても、『自分』を何もかもから引き離したら、それこそ『生きている実感』が乏しくなって、人生が空虚に感じられてしまうのではないか?」という疑問が浮かんだことでしょう。それは至極当然の疑問です。

 このような疑問に対して、私はこう答えます。

 つまり、もし「同化」がより深まっていった場合、私たちは「苦しみの多い自分の人生」から逃避しようとして、より深刻で病的な状態に陥るが、それとは反対に、「同化」を打ち破ることに成功すればするほど、私たちは「無用な苦悩」から自由になり、よりいっそう自分の人生を深く生きることができるようになる、と。

 

 私がこの講義でこれまでに説明してきた「『自分』と『自分でないもの』とを明確に区別する」という在り方が、「分離」です。これは私たちの中に根付いている「無意識的で機械的な同化の習慣」が打破されることによって、徐々に内側に生まれてきます。

 そして、「分離」が深まることで、私たちは「自分でないもの」に無闇にしがみつくことをやめられるようになり、「無意識に何かと同化してしまう」のではなく、「意識的に対象とかかわる」という在り方を選択することができるようになっていくのです。

 

 反対に、「同化」がさらに深まってしまった様態のことを、私は「乖離」と呼んでいます。なぜ「同化」が進行することで、「乖離」というような「自分から離れる現象」が起こるのかは、ちょっと考えてみるとすぐわかります。

 たとえば、人生をいくらか長く生きていると、「非常に耐えがたい苦痛」に苛まれることが私たちにはあります。そして、そのような「苦痛」を感じ続け、認識し続けることがあまりにも辛いとき、私たちは「いっそ意識がなくなってしまったらいいのに」と願ったり、「もうこのまま死んでしまったほうが楽だ」と思ったりします。

 そういった状況があまり長く続かなければ、「苦痛」が去った後に「ふぅ、やれやれ」と言って、私たちは精神的な平衡を取り戻すことができますが、そう毎回「苦痛」から逃げられるとは限りません。もしも私たちが「耐えがたい苦痛」からどうしても距離を取ることができない状況に長期間にわたって閉じ込められると、上記のような「『自分』をいっそなくしてしまいたい」という願いは、私たちの内側で際限なく強まっていくことになります。そして、そのような「過酷な状況」に置かれ続けて、私たちの精神が「もうこれ以上は耐えられない」という限界を超えてしまったとき、私たちは自分自身をなんとかして守るために、「自分はいま、この世のどこにも生きていない」という「夢」を内側で作り出し始めるのです。

 

 たとえば、何度もリストカットをする人などは、症状が深刻化してくると、「自分の手首を切っているときの記憶」がなくなるだそうです。気がつくと、いつの間にか手首を切ってしまっている。自分でも自分が何をしているか、気づくことができなくなってしまうのです。

 私自身はリストカットはしたことがないですが、人生の最も苦しかった時期に、過量服薬をして昏睡状態に陥ったことがこれまでに二回あるので、なんとなくそういう「感じ」はわかります。ああいうときには、「自制が利かない」というより以前に、そもそも「自分がしていること」をまるで他人事みたいに眺めることしかできなくなってしまっているものです。

 

 「生きていることが苦しい」「でも、それをどうやって言葉にしたらいいかわからない」という窒息しそうな状況の中で、「『言いたいのに言葉にできないでいる想い』が自分の中にあると、せめて誰かに知って欲しい」という願いから、私たちは自傷行為という「表現」をおこなうことがあります。そしてそれは、「他人に向けた表現」であるのと同時に、「自分自身に対するリセット」としても機能しています。深く苦しんでいる当人は、ときどきそうやって自分を傷つけて「リセット」をかけないと、自分の中に溜まっている「言葉にできない何か」を外側に流して捨てることができなくなっているのです。

 

 このように「自分をなんとかして癒すための表現」として自傷行為を繰り返している人に向かって、「そんなことは絶対にしてはいけない」とただ頭ごなしに行為だけ禁止してしまうと、本人はもう「生き延びていくための手段」を完全に失ってしまいます。

 そもそも、リストカットに限らず多くの自傷行為の本当の目的は「死ぬこと」ではありません。むしろ事情はその逆であって、自傷行為の常習者は「なんとか今日を生きるための力」を再び内側に灯すために、「自分の命を傷つける」ということを何度も繰り返しているのです。

 そうやって、自分をあえて傷つけ、少しだけ「死」に近づくことによって、「まだ生きていること」をかろうじて確かめることができる。私たちが本当に精神的に追い詰められると、「自分の命」を部分的に壊しでもしない限り、「生きている実感」を得ることが私たちにはできなくなってしまうのです。

 

 そういう意味で、自傷行為というのは「死ぬための方法」ではなくて、本人にとっては「生きるための儀式」と言ってもいいと思います。

 実際、自傷行為を繰り返す人の心の底には、「生きたい」という願いがいつも残っているはずです。しかし、こういった「内的な事情」を理解しないまま、ただ外から自傷行為だけを無理やり禁止されてしまうと、「じゃあ、これから何を支えにして生きていったらいいのだろう?」と本人は途方に暮れることになります。

 私たちの心には「生きたい」という願いが常にあり、それゆえに自傷行為を手放せなくなることがあります。しかし、「生きたい」という「心の欲求」と、「自傷行為をしてはいけない」という頭の中で鳴り響く「命令」とがぶつかり合ってしまうと、私たちはどこに向かっても進めなくなり、余計に苦しむことになります。

 そして、こういう場合に私たちは、「自傷行為をしている間だけ別人になる」という生存戦略を無意識に採用することがあるのです。

 

 たとえば、リストカットをしている間だけ当人の記憶や意識がなくなってしまうのは、「リストカットは『悪いこと』だ」という自責の念に苛まれることなく、その行為を完遂することができるようにするためです。

 「リストカットに依存している自分」を責める言葉が頭の中で鳴り響き、それと深く「同化」してしまっているとき、私たちはあまりの苦しさゆえに、「自分」というものを完全に消してしまおうとします。

 これこそが「乖離」です。心の中にある「生きたい」という欲求が、「手首を切ってリセットをかけないと、もうこれ以上は耐えられない」と叫ぶとき、「自責の念」から離れるために、その人は「自分を消す」のです。

 

 私が「なんとかして『同化』を打ち破って、『分離』の境地を目指しましょう」とこの講義の中で呼びかけているのは、上記のような「乖離」の状態に至るためではありません。

 そうではなくて、むしろそんな風に「乖離」をしなくても生きていけるようになるためであり、言い方を換えれば、もっと自分自身のことをありのままに受け容れられるようになるためです。

 大事なことは、自傷行為に頼らなくても自分のことを支えられるような、「豊かな生」を自分の内側に築くことです。もちろん、それほど深刻な状況に陥っている人ばかりではないでしょうけれど、自分の内側に「豊かさ」を培う必要がない人など、きっと一人もいないでしょう。

 

 自傷行為は、確かに「深い苦しみ」のただ中にいる人を、一時的には楽にしてくれるでしょう。

 でも、私は自傷行為をそれほど「善いこと=役に立つこと」だとは思いません。なぜなら、この世界には「もっと善いこと」が他にも無数に存在しているからです。

 

 ただ「いつも通りの食事」をすることの中にも、喜びはあります。

 たとえ「ちょっとした散歩」であっても、身体を動かすことの中には快さがあります。

 自分の息を、ただそのままに深く味わってみると、強張った心も緩んでいきます。

 そして、もし空を見上げるなら、鳥の声が聞こえるなら、心はもっと開いていきます。

 

 私たちのことを自由にしてくれる「善いこと」は、私たち自身が自分で思っているよりもずっとたくさん、身近なところに溢れています。

 私は、いま苦しんでいる人に、それをこそ伝えたいです。

 

・思考を観察する技法

 それでは、技法です。

 「自分の思考」を観察し、「思考との同化」を打破するための「観想の技法」を解説します。

 

<観想の技法>

  1. リラックスして、できるだけ背筋を伸ばして坐る。
  2. 目を閉じて、鼻を通して出入りする自分の息に意識を向けながら、内側で漂っている思考を見つめ続ける(30分~1時間を目安におこなう)。

 

 これだけです。

 手順としてはこれだけなのですが、とても多くのポイントがあります。ここから、それらを一つずつ確認していきましょう。

 

 まず、「リラックスして坐ること」についてですが、できたらあまり精神的に興奮していたり、身体がガチガチに緊張していたりしない状態でおこなってください。もしどうしても「ただ坐っているだけ」で緊張してしまうようであれば、まずこれまでの講義で解説してきた、「身体をたくさん動かす」「睡眠の質を改善する」、あるいは「内観法」「呼吸法」といった「身体感覚へ意識を向ける技法の実践」を優先してください。

 坐っているだけで緊張してしまうのは、そもそも「内側の思考」があまりにも騒がしくなってしまっているためと考えられます。それゆえ、まずは「思考」を静めて、リラックスした状態で「思考」を見つめることができるような「下地作り」を優先したほうが、実践が困難に陥る可能性は減ると思います。

 それから、「観想の技法」を実践する直前に、軽くジョギングや筋力トレーニングなどをして、頭に偏っていたエネルギーが身体全体へ巡りやすい状態を作っておくことも有効です。少し激しく身体を動かして、そこからの流れで坐ると、頭の中もいくらか静かになりやすいです。

 

 それから、「背筋を伸ばすこと」についてですが、これにも非常に大きな意味があります。

 まず、これまでに自分自身が深く苦悩していたときの姿勢を思い出してみてください。あるいは、ひどく悩んでいるように見える人のことを想い描いてみてもいいです。どういう姿勢をしているでしょうか?

 

 私たちが「苦悩」に囚われるとき、その姿勢には多くの共通点があります。たとえば、「眉間にしわが寄っている」、「背中が丸くなっている」、「目に力が入っている」、「胸や肩が強張り、息が浅くなっている」などなど、「思考との過度の同化」は、身体によっても表現されるのです。

 「内観法」をいくらか続けていくと自覚できるようになりますが、私たちが考え事をしている時は、「頭の感じ」が変わります。なんとなくそこだけ感覚が強く、濃くなっているように感じるのです。

 これは、考え事をしている他人を外から観察していると、よくわかります。実際、眉間にしわを寄せて深刻な顔をしている人は、例外なく、頭の周りに「重い雲」のようなものがまとわりついているように傍からは見えるものです。

 「内観法」を続けると、自分自身に対しても、そのような「頭の周りの雲」を自覚できるようになっていきます。「あれ、なんだか頭の周りが重いぞ。きっと考え事に夢中になってたからだな」といった具合に、「思考との同化」が自分で感覚的に察知できるようになっていくのです。そういう感受性が育ってくると、「同化」から抜け出るのも次第に容易になっていきます。

 

 いずれにせよ、「観想の技法」を実践していて、「自分と思考が同化している」と感じたときには、まずは身体の状態を確認してみてください。

 

 目の周りに力は入っていませんか?

 眉間にしわが寄っていませんか?

 背中が丸まって胸が潰れてはいませんか?

 呼吸が乱れたり、浅くなったりしていませんか?

 

 「頭の中が騒々しい」と感じたときは、そういったことをまずは点検してみましょう。

 「思考との同化」が深くなってしまっているときには、大抵、身体には色々な「サイン」が出ています。それに気づけるように、「思考」だけでなく「感覚」にも意識をいくらか向けるようにしてみてください。

 

 そして、「リラックスして背筋を伸ばして坐る」ということができたら、次は「自分の呼吸」を徹底して意識していきます(「呼吸を意識する仕方」については、第六講の「呼吸法」についての解説を参照してください)。

 なぜ「思考」ではなく「呼吸」を意識するのかというと、そもそも「思考」はほっておいても私たちの意識を勝手にさらっていってしまうものだからです。実際、この「観想の技法」を実践すると、私たちは「いつの間にか『思考』と同化してしまっていて、『思考』をまるで観察してなんかいなかった」ということに、それこそ「うんざりするほど」繰り返し気づかされることになります。

 そもそも私たちの「無意識」というものは、だいたいにおいて「思考との同化」とペアになって成立しているものです。それゆえ、「いかに意識的な在り方をするか」ということは、「いかにして思考から距離を取るか」ということとほとんど同義となるのです。

 

 呼吸に意識を向けるようにするのは、何度も私たちを取り込もうとする「思考」から身をもぎ離して、「戻っていく場所」を作るためです。つまり、「思考を観察するための足場」をひとまず確保するために、便宜的に呼吸を利用するわけです。

 入ってくる息を感じ、出て行く息を感じる。その「息の感覚」へ意識を向けていくことによって、私たちは「思考」から距離を取りやすくなっていきます。そして、呼吸がこのようにたいへん役に立つのは、それが私たちの命の「普遍的な現象」であるためです。

 

 呼吸は、私たちが生きている間ずっと続きます。それは私たちの中の「普遍的な部分」です。

 これに対して、「思考」というものは一種の「寄生物」に過ぎません。それは私たちが生まれたときにはまだなく、「他人の言葉」を外から日々摂取し続けることによってしか生きながらえることができないものなのです。

 それゆえ、「思考」というものは、「非常に不安定で変化しやすい」という性質を持っています。このような「コロコロ変わるもの」を「自分の足場」にしてしまうと、私たちはまったく落ち着いていられなくなります。私たちの内側では常に無数の「思考」が湧いては消えていくわけですから、もし「思考」と深く「同化」していると、私たち自身もまた「思考」と同じくらい移ろいやすくなってしまうのです。

 

 どうせ「自分の足場」にするのであれば、もっと「変化しないもの」に意識を向けたほうが、心も身体も安定します。それでここでは、呼吸を使うというわけです。

 もちろん、呼吸も常に変化しています。私たちの喜怒哀楽や苦悩の深浅によって、呼吸は乱れたり、浅くなったり、速くなったりするものです。しかし、「思考」に比べて呼吸は「どういう仕方でするか」ということを、かなりの程度まで意識的に自分で選択できます。たとえば、何度か大きく深呼吸をしたり、吐く息をゆったり長めにするよう意識するだけでも、心身をリラックスさせるのに大きな効果があります。「一定のリズムの落ち着いた呼吸」を意識することで、私たちは「はっきりとした足場」を確保することができるのです。

 

 あとは、ひたすら「呼吸という足場」に中心を定めて、そこから「自分の思考」を眺め続けます。まるで、見晴らしの良い原っぱの真ん中に坐って、空を流れゆく雲を眺めるかのように、「自分の思考」を観察するのです。

 具体的には、何か「思考」が浮かんだときに、「『そういう思考』が自分の中に在る」と、ただ確認するようにします。慣れないうちは、心の中でそのように言語化してもいいと思います。

 たとえば、坐っているうちに「そういえば、このあいだ買った本にこんなことが書いてあったなぁ。それはこういう問題について論じていて…」といった具合に、「思考」が浮かんできたとします。そうしたら、「自分の思考」に気づいた時点で、「このあいだ買った本のことについて考えた」という風に、心の中で言葉にして確認するのです。そうやって自分の中で「思考した」と確認することによって、そこから「本の内容」について無意識に連想し続ける流れを断ち切ることができます。

 または、「なんだか坐っていても集中できないなぁ。こんなことでいいのだろうか?」といった「思考」が浮かんだら、「『集中できていない』と思った。それから、『そういう自分の在り方についての疑問』が浮かんだ」とだけ心の中で確認して、そのままほっておきます。

 「どうやって集中しようか?」ということについてさらに考えたり、「こんなことを考えているからいけないのだ」と自分を責めたりすると、余計に「思考」が騒がしくなりますから、気づいた時点で「考えた」ということだけ確認して、そのまま手放してください。

 

 もしも自分の中で「思考」を確認するときに「そもそもどういうことを考えていたか」が判然としない場合は、ただ「思考と同化していた」とだけ確認するのでも十分です。むしろそこで、「えーと、そういえばどうしてこんなことを考えてしまったんだっけ?」と一生懸命に思い出したりしていると、それによって余計に「思考」へ引っ張り込まれてしまう可能性がありますから、頭がこんがらがってきたときは、「いま混乱している」とだけ確認して、気持ちを呼吸へと向け直しましょう。

 

 最初のうちは「同化している」ということに気づくだけでも大変だったりします。何分間も「考え事」に夢中になっていて、自分では「同化」にまるで気づかないまま坐り続けていることもしばしばです。

 しかし、実践を続けていくことで、「同化」に気づくのはどんどん早くなっていきます。たとえ「同化」することがあっても、「あ、また考え事に夢中になってた」と自分で気づいて、即座に意識を呼吸のほうへと向け直すことができるようになります。

 また、実践によって「自分の思考」を客観的に眺められるようになるにしたがって、内側でそのつど言語化しなくても、「今どんなことを考えていたか」ということや、「なぜそのような思考が起こってきたのか」といったことまで、瞬間的に理解できることが増えてきます。頭の周りをいつも漂っていた「モヤモヤした思考の雲」が消えていくことによって、私たちの「内なる知性」が研ぎ澄まされていくからです。「知性」が研ぎ澄まされてくると、「論理的な思考力」だけでなく、「直観的な洞察力」も内側で育ってくるのです。

 

 この技法のコツは、どのような「思考」が浮かんでも、それを「正しい・間違っている」という観点から区別しないようにすることです。「こんなことを考えてはいけない」とか「こういう風に考えなければ」という風に分別をせず、全ての「思考」に対して「平等な姿勢」を保つよう努めてみてください。 

 たとえば、仮に「暴力的な思考」や「淫らな思考」が不意に浮かんできても、「そういうものが今の自分には在るんだなぁ」とだけクールに確認して、さっさと流してしまいます。もしそこで「こんな考えが浮かぶ自分は悪い人間だ」と思ったとしても、「『こんなことを考える自分は悪い』と考えた」とだけ認識すれば、そこで「終わり」です。それ以上、「思考」を深追いしないようにします。

 

 しかし、私は別に「『正しい・間違っている』という観点から分別することは『間違ったこと』だ」と言っているわけではありません。そうではなくて、たとえ「正誤」の観点から「自分の思考」について分別をしてしまうことがあっても、「ああ、また分別したな」とだけ認めて、そのことに執着しないような態度を保つとき、私たちは「観察」ということが初めてできるのだと、私はここで指摘しているだけです。

 たとえば、小学生の時に「朝顔の観察」をしたことのある人は多いと思います。しかし、もし朝顔の生育状況について、「こうなったら正しくて、こうなっていたら間違いだ」といちいち解釈していたら、私たちは目の前の朝顔をそのまま観察することができなくなってしまうでしょう。

 もしも「正しい・間違っている」という観点でばかり物を見ていると、私たちは往々にして、「対象の本当の姿」を無意識に歪めてしまいます。何一つとして目に映っているままに見ず、自分で「正しい」と思っている方向へ対象を歪めて解釈したり、自分で「これは間違いだ」と思ったことをまるっと見落としたりします。

 しかし、どれほど「こうなるのが本当は正しいのだ」と言い募ろうとも、「現に起こっているもの」がそれによって「正しい(と思っている)姿」に変わるわけではありません。また、いくら世界中の人が「そんなことは正しくない」と言ったとしても、「既に現れてしまっているもの」がそれで無くなるわけでもありません。

 現に在るものは「在る」と認め、無いものについては気にしない。そのような「クールな態度」をもって対象を観ることを指して、「観察」と私たちは呼んでいるのです。

 

 これで、「思考を観察する」というのがどういうことなのかは、なんとなく理解してもらえたのではないかと思います。それがひとまず「頭で」理解できたなら、あとは実践を通して「心と身体でも」理解していくことが大事です。

 これは前にも一度書きましたが、「ただ頭で理解しただけ」では私たちはほとんど何も変わらないものです。私はこの技法において、「『自分』は『思考』ではない、『自分』と『思考』は別だ」という言葉を「頭の中」で機械的に唱えて欲しいのではありません。そうではなく、「『自分』は『思考』ではない」という「感覚」を「心と身体のすべて」を使って、あなたに感じられるようになって欲しいのです。

 

 そのためにも、この「観想の技法」では、「呼吸に意識を向ける」ということをとにかく大事にしてみてください。自分の呼吸を深く感じることができるようになればなるほど、徐々に「思考」から離れることができるようになり、それをまるで「他人の思考」のように観察することができるようになっていくはずです。そうすれば、「『自分』と『思考』との間に距離ができる」というのがどういう「感覚」のものであるか、自分自身の体験を通して理解できるようになっていくでしょう。

 ただ、おそらくそのような「思考からの分離」が感覚的に掴めるまでには、少なくとも数週間か、人によっては2~3ヶ月はかかると思います。また、実践だけに集中している時間は「分離」が保てるようになっても、複雑な日常生活の中では、必ずしも「分離」が維持できないこともあるでしょう。

 しかし、忍耐強く実践を続けていけば、確実に「思考との同化」は薄れていきますから、たとえすぐに成果が出なくても焦らずに続けていって欲しいと思います。

 

・まとめ

 それでは、最後に今回の講義全体のまとめをしておこうと思います。

 

◎「思考」を静めるために役立つもの

  • 「激しい全身運動」
  • 「質の良い睡眠」
  • 「感覚の意識化」

 

◎「思考」の質を改善するために役立つこと

  • そもそも「思考」は「他人の言葉」によって形作られるため、「取り入れる言葉」には日頃から注意する。
  • 「活力」「落ち着き」「明確な決意」を内側にもたらしてくれる言葉には、意識的に親しむようにする。
  • 逆に、「暴力性をいたずらに掻き立てる言葉」や「自暴自棄になることを促す言葉」からは努めて距離を置くようにする。

 

◎「分離」「同化」「乖離」について

  • 「『思考』と『自分』を同一視している状態」のことを「同化」と呼ぶ。
  • 「同化」によって、「自分自身」は見失われ、「苦悩」が現れる。
  • 「同化」がさらに深刻になると、そこから逃避しようとして「乖離」が起こる。
  • 反対に、「同化」が打ち破られてくると、「自分の思考」を離れたところから眺めることができるようになるが、このような状態のことを「分離」と呼ぶ。
  • 「同化→乖離」の方向に進むと、「苦悩」はいっそう深刻化する。
  • 「同化→分離」という方向に進めば、「苦悩」から徐々に自由になる。

 

◎「観想の技法」について

  • リラックスして、背筋を伸ばして坐ることが大事。
  • 心身に強い緊張があったり、姿勢が崩れていたりすると、それだけ「思考」と「同化」してしまいやすくなる。それゆえ、もし「思考」が騒がしいように感じたときは、「頭の中」よりも「身体の状態」を優先的に点検する。
  • 「観想の技法」を実践する直前にいくらか身体を動かしておくのも、頭をスッキリさせるのに役立つ。
  • 「リズムが一定のゆったりした呼吸」を心掛け、そこを「観察のための足場」とする。「思考との同化」に気づくたびに、呼吸へ意識を向け直す。
  • 「思考」については、「正しい・間違っている」という観点を捨てて、ただそのまま観るように努める。確認だけして、深追いはしない。
  • 「思考との同化」に自分で気づいた時点で、「同化している」と心の中で言葉にして確認することも、「いたずらな思考の連鎖」を断ち切る上で役に立つ。

 

 

 以上です。

 これで、「感覚」「思考」「感情」という三つのうち、二つ目まで解説を終えました。

 次回は、技法の実践を続けていくことによって、私たちにどういった変化が起こってくるのかを述べていきたいと思っています。

 これまで、「この技法を実践するとこういうことが起こるでしょう」とか「こういうことに気をつけて過ごすとこういった変化が起こるはずです」といったような「個別的な話」については書いてきました。しかし、「技法というものが具体的にどういった変化を起こすものなのか」ということについて、もっと「普遍的な傾向」とでもいったものをもう少し書いておきたいです。

 というのも、技法の実践によって私たちが本当に深いレベルから変化し始めると、時として、私たち自身が戸惑うような「予想外の事態」が発生することがあるからです。

 

 私たちが「自分に適合した技法」を真剣に実践していれば、私たちは必ず「思いがけない変化」にたくさん直面することになります。そういった時、「技法によって起こる変化」について何も知らないでいると、「こんなことが起こるなんて、自分のやり方が間違っているのだろうか?」という疑問が浮かんだり、「このまま続けても大丈夫なのだろうか?」と不安になる可能性もあります。

 そこで、私自身の経験も踏まえながら、「技法の実践によって何が起こるのか」ということについて「大まかな傾向」とでもいったものを、次回は示してみようと思います。そうすれば、実践者自身が「今後も実践を続けて大丈夫なのかどうか」ということや、「そもそも今のようなやり方でいいのかどうか」といったことについても、ある程度まで自分で判断することができるようになるでしょう。

 「感情についての技法」は、それが済んでから解説していくつもりです。

(2018年10月4日加筆修正)

 

 前へ

 次へ