「闇夜」を越えて

・前置き

 ここまで、「感覚」「思考」「感情」という三つのアプローチのうち、「感覚」と「思考」の二つについて解説をおこないました。

 今回は、最後の「感情に関する技法」について解説をする前に、「技法の実践によって具体的にどういった変化が起こるものなのか」ということを、少し書いておこうと思います。 

 

 そもそも技法の目的は「『我が家』に帰ること」です。言い換えれば「『本来の自己』に定まること」なのですが、そこに至るまでにはそれぞれの人が個々別々に「紆余曲折」を経ることになります。

 今回は、そのような「個人的な紆余曲折」をそれぞれの人が辿る中で、だいたいにおいて起こるであろう「変化の傾向」を示してみたいと思っています。「個別的なケース」について語り出すとそれこそ切りが無いですが、実践者自身がその「だいたいの傾向」だけでもわかっていると、たとえ実践を続けることで困惑するような事態に遭遇しても、いくらか冷静に対処できるのではないかと思います。

 

・「新鮮さ」を取り戻す

 もしも実践者自身が真剣に技法をおこなっていて、かつ、その技法が本人の適性に合ったものだった場合、おそらく実践を始めてから一週間から10日ほど経った頃に、「なんだか自分が変だ」とその人は感じ始めることになります。というのも、それまで当たり前にできていたことがスムーズにできなくなったり、いつもなら疑問を感じなかったことに違和感を抱いたりするようになるからです。

 技法が本当に有効に機能し始めた場合、必ずこういった変化が当人の内側で起こってきます。つまり、もし技法がちゃんと効果を発揮し出したら、私たちはどこで何をしていても「なんだかいつもと違う」と感じるようになっていくのです。

 それは、技法の実践によって、私たちの中の「無意識のパターン」が壊れて消えていくからです。そもそも技法というものはどれも、私たちの「無意識的な在り方」を「意識的な在り方」へと徐々に変えていくものです。それゆえ、実践をすればするほど、それまで深く感じたり考えたりしないまま機械的に反復し続けていた「パターン」が、一つずつ内側で破壊されていくことになります。そして、その結果として、私たちは何をするにも、そのつど「自前のやり方」を新しく発明するのを余儀なくされることになるのです。

 

 この事態は、肯定的に見ると、「あらゆることをもう一度新鮮な気持ちでおこなえる」という風にも捉えることができますが、人によっては「今まで当然のようにできていたことがまるでできなくなった」と否定的に見てしまう場合もあります。

 技法がもし本人の適性に合っていれば、日々の実践によって「心地よさ」や「充実感」といったものを得ることもできている場合が多いですし、日常的にも、「固まっていた古い部分」が自分の中で溶けていき、「新鮮で瑞々しい何か」が生まれてくるのを本人は感じるものです。もし実践者自身がそういった「肯定的な面」だけを見るなら、「自分は正しい道を進んでいる」と思えるでしょう。実際、「心地よさ」や「充実感」が内側でもっと育ち、「古いもの」が死んで、「新しいもの」が次々と芽吹くようになると、私たちは恐れたり不安に思ったりすることなく、「自分の道」を力強く進んでいくことができます。

 しかし、往々にして、これらの「肯定的な面」が本人の中ではっきり自覚できるところまで成長してくるのにはいくらか時間がかかります。それゆえ、「肯定的な面」が十分育まれる前に、「否定的な面」のほうが大きく現れてきて、私たちを困惑させることになる場合が多いのです。つまり、「技法の実践によって、自分は確かに前進している」という実感を得る前に、「実践を始めてから、なんだか万事うまくいかなくなった」という無力感に苛まれてしまうのです。

 

 私たちは「古いパターン」を無数に抱えています。

 たとえば、朝起きるときに、右を向いて起き上がるのか、左を向いて起き上がるのか、それともまっすぐ前に身体を起こすのか、だいたい人によって決まっています。

 または、止まっていた状態から歩き出すとき、左右どちらの足から前に出すか。誰かと話をするときに、相手の顔や身体のどこを見て、どこは見ないか。考え事をするときに無意識に髪や顔などを触る手つきなども、何千回繰り返しても毎回同じです。

 こういったことは「細かいこと」のように感じる人もいるでしょう。しかし、技法を実践するようになると、そういった「何でもないこと」にいちいち引っかかるようになっていきます。なぜなら、「古いパターン」を無意識に繰り返すことが、「死んだ体験」として感じられるようになっていくからです。

 

 たとえば、「この相槌の打ち方、いったい自分はこれまで何千回繰り返したのだろう?」と、ふと思うことがあったとします。そして、「毎回判で押したように同じ相槌の打ち方を反復しながら、はたして自分は他人の話を本当に聞いていたのだろうか?」と改めて自問してみると、「まったく真剣に聞いてなどいなかった」ということに大抵は思い至ります。むしろ、真面目に聞いていなかったからこそ、そんな風に「機械的に相槌を打ち続けること」ができたのだということが、はっきりわかってくるのです。

 私たちが「固定化したパターン」を無意識に反復すればするほど、私たち自身は「耳に入っていても聞いていない」「目に見えていても見ていない」という無感覚な状態にはまりこんでいきます。私たち大人が、幼い子ども達のように「何でも無いこと」を楽しんだり面白がったりできないのはこのためです。それは、あまりにも多くのことが「習慣化」した結果として、私たちの感受性が死んでしまっているからです。それゆえ、同じ物や出来事を前にしていても、子ども達が驚いたり興奮したりするところで、私たち大人は「それはもう知っている」と始めから決めつけて、真剣にそれを見ようとさえしないのです。

 

 しかし、こういった「無感覚」こそが、私たちをしばしば悩ます「倦怠感」や「生気のなさ」の根源なのです。

 「生きていることがつまらない」「毎日が退屈で仕方ない」「なんでもいいから変化が欲しい」と嘆きながら、手軽に体験できる娯楽の中に自分を埋めてみても、すぐにまた退屈してしまいます。それは、刺激の強い娯楽にいつも頼っていないと自分を支えられないほどに、私たち自身が「退屈そのもの」になってしまっているからです。

 

 私たち人間は、基本的にエネルギーを節約したがる生き物です。それゆえ、一度でも何かを「わかった」と思うと、それから先、深くそのことについては考えなくなりがちです。 

 たとえば、幼い頃に「どうして世界は在るのだろう?」とか「生きるってどういうことだろう?死ぬってどういうことなんだろう?」とかいったことが気になった経験は誰しもあると思います。でも、「世界が在るのは当たり前」「生きて死ぬのは当たり前」と、いつの頃からか「わかったような気分」になって、私たちはこういった「根源的な問い」を封じ込めるようになっていきます。

 「答え」がわかったわけでもなく、納得できるところまで考えたわけでもないのに、ほとんどの人は「答えの出ない問いを味わう」ということをしなくなっていきます。それは、「そんなつまらないことを考えてる時間があったら、もっと勉強をしなさい」と親から言われたからかもしれないし、まわりの子達が全然そういうことを真面目に考えているように見えなかったからかもしれません。大人になって仕事をするようになれば、それこそ「そんなことをいちいち考えている暇なんてありゃしない」と感じる場合もあるでしょう。

 でも、「世界がどうして在るのか」はいつまで経っても謎のままですし、「生きる」ということも「死ぬ」ということも、不可解であるのは変わっていません。ただ確かなことは、私たち自身がそういったことを「不思議だ」と感じる感受性を失えば失うほど、私たちの日常は色褪せていき、物事を根源的に考える力も徐々に退化していくということです。

 もちろん、何でもかんでも「そんなの当たり前」と言って、考えることなくスキップしてしまえば、効率よく「勉強」も「仕事」もできるでしょう。しかし、「『当たり前なこと』ほど不思議なものはない」と感じられる感性をそうやって殺してしまったら、「生きること」がひどく退屈で味気なく感じられたとしても、それこそ「不思議」ではないのです。

 私たち自身を「生き返らせる」ためには、「『当たり前なこと』に驚く」という子どもの頃に誰もが持っていたであろう感受性を、もう一度復活させる必要があります。そして、技法の実践は、そのような私たちの「再誕生」を助けてくれるのです。

 

・「闇夜」を進む

 技法の実践を通じて、私たちは「もう一度ゼロから生まれ直す」ような体験をすることになります。実践をし始めて少し経った頃に、以前であれば何の疑問も抱かずにおこなえていたことがスムーズにできなくなるのは、当人の中でいつの間にか鈍くなってしまっていた感受性が、内側で息を吹き返し始めるからです。

 そうなると、ただ歩くということさえも「当たり前」ではなくなります。そこに、際限の無い「神秘」があるとわかるようになるからです。

 そもそも、私たちがまだ赤児だった頃、立ち上がって歩けるようになるまでに、いったい何万回の「トライアル・アンド・エラー」を繰り返したことでしょうか。しかも、それは実際には「繰り返し」でさえありませんでした。なぜなら、「試行錯誤」の過程において、私たちは無意味に「同じこと」を繰り返したりはしないからです。

 「やってみる、失敗する、別のやり方を試してみる」というプロセスをたとえ何万回繰り返しても、そこでは何一つ「まったく同じまま」で繰り返されることがありません。常に「新しいやり方」を試みては、「失敗」を積み重ねながら向上していく。そこにこそ、「発見の驚き」や「成長の喜び」があるのです。

 しかし、一度歩けるようになってしまうと、私たちはすぐにエネルギーを節約し始めます。日常の生活に不便が生じない限りは、「歩く」ということをちゃんと見つめなくなっていくのです。もはや考え事をしながらでも、他人とおしゃべりをしながらでも、私たちは転ぶことなく歩き続けることができます。それゆえ、「もう『歩くこと』については考えたり感じたりしなくても良い」という判断を私たちは無意識に下してしまい、以降は「歩く」という動作を何万回、何十万回も、同じ仕方で機械的に繰り返すだけになってしまうのです。

 

 私たちの「退屈」は、私たちが多くの時間を掛けて徐々に育ててきたものです。

 そして、技法はそのような「退屈」を根底から打ち崩そうとします。これによって私たちは「新鮮な眼差し」を取り戻すことにはなるのですが、その過程において、一時的に「不適応な状態」に陥ることは避けられません。

 実践を続けるうちに、私たちは「無意識的・機械的に同じパターンを繰り返す」ということに心理的な抵抗感を覚えるようになり、「これまで通りのやり方」を無批判・無感覚に続けることができなくなっていきます。前までは問題なくできていたことに引っかかったり、何の疑問も抱かずにしていたことについて「本当にこれでいいのだろうか?」といちいち自問したりするようにもなる。それゆえ、主観的には、自分が前よりも「無能力」になってしまったように感じることも多いです。

 しかし、こういった「無能力状態」は、本人の深いレベルで「トライアル・アンド・エラー」のプロセスが再開したことによって、一時的に発生しているものに過ぎません。しばらくすれば、思考も動作も、前よりさらに高度なレベルでおこなえるようになっていきます。別に「新しい理論を頑張って覚える」とか、「難しい身体技術を習得する」とかいったことを一切しなくても、「日々の試行錯誤」を通して、「考える力」は研ぎ澄まされ、「運動の質」自体が全般的に向上していくためです。

 そして、私がこれまでの講義で述べてきた「受容(第六講)」や「分離(第十講)」などもまた、こういった「一時的な不適応状態」を越えた先に少しずつ現れてくる境地なのです。

 

 このような「質的な変化」が内側で感じられるようになると、「自分は『間違った道』を進んでいるのではないか?」という疑いを抱くことなく、実践を続けていくことができるようになります。

 しかし、上でも書きましたが、そのような「手応え」を本人が主観的に感じられるようになるまでには、少し時間がかかるのです。それゆえ、「前より無能になった」という感覚に本人が戸惑いを覚えているところへ、周りからは「いったい最近どうしてしまったの?」と気を揉まれ、場合によっては「なんでそんなこともできないんだ!真面目にやれ!」と上司や教師から叱責されるなどし、「やっぱりこの道は間違っていたんだ」と思って、元通りの「機械的な生き方」へ実践者が戻っていってしまうことも多いのではないかと思います。

 

 かく言う私自身も、何度も「進んだり戻ったり」を繰り返しました。特に私の場合、「そのまま進んでいいのだ。あなたの道は間違っていない」と言ってくれる「生身の師」に出会うことができなかったので、いつも自分自身の判断で進んだり戻ったりを繰り返すことになりました。それゆえ、「はたして進むのが正しいのか、戻ったほうがいいのか」ということについても、なかなか確信が持てなかったのです。

 ただ、ここまで述べてきたようなことについて、書物を通して知ってはいました。技法を実践していくと、遅かれ早かれ「不適応期」が現れることになり、それはいくらか時間が経過すると自然に終わっていくと、知識としては知っていた。しかし、書物の中でいくら「大丈夫だ」と言っている人がいたとしても、自分の主観としてはどんどん「無能」になっていくように感じるし、周りの知人や友人も「そっちに進むのは間違っているよ」と言ってくるわけなのですから、私はなかなか踏ん切りがつきませんでした。

 そうかといって、「もと来た道」を戻ってみても、そこには「慣れ親しんだ退屈」が待っているだけで、ちっとも生きていて楽しくありません。技法の実践を通して一度でも「意識的に生きる味」を知ってしまうと、かつてのような「無意識にどっぷり浸かった生き方」は、あまりにも味気なく感じられてしまうためです。

 結局、私は何回か「行きつ戻りつ」を繰り返した後に、「たとえこの道をとことん進みきることによって何もかも失うことになったとしても構わない」と覚悟を決めて、後ろを振り返らずに進み続けることを選びました。

 そうして進み続けてしばらく経った頃、書物に書いてあったことは「嘘」ではなかったと、はっきりわかりました。本当に、「ひたすら前へ進むこと」は間違ってなどいなかったのです。

 

 ちなみに、このような「一過性の不適応期」は、瞑想の世界では古くから「魂の闇夜」という呼び名で知られていたようです。

 それはまさに「闇夜」というに相応しいものでした。自分がこれからどう変化するかまるで予測がつかず、「これだけは確かだ」と思っていたものが、どんどん崩れて「不確実」になっていきました。先に進むことが「正しい」という保証もなく、元に戻っても苦しいだけ。「向こう」にも行ききれず、「こちら」にも安住できず、中途半端な状態で長いあいだ苦悩し続けたことを思い出します。

 

 私自身に関する限り、「闇夜」はもう過ぎ去りました。だからこそ、私はこうして「後からやってくる人」のために文章を書いてみようと思ったのです。

 「進むこと」も「戻ること」もできずに苦しみ続けていたときに、「大丈夫だ。自分を信じて進みなさい」と励ましてくれた本が何冊かありました。それらは結局は「単なる言葉」に過ぎませんでしたけれど、それらの言葉が、怯えながら行きつ戻りつしていた当時の私を何度も勇気づけてくれたことだけは確かです。

 世の中には、「『自分探し』なんて単なる逃げでしかない」とか、「自分ほど当てにならないものはないのだから、何でも他人から教えられた通りにするべきだ」とかいったことを大きな声で語る人々がたくさんいます。それに比べると、「『自分』を本当に見極めなければ、真っ当に生きることなんてできはしない」とか「他人の言うことに振り回されるより、自分自身の心を信じろ」とかいったことを真剣に語る人たちの数は、実に少ないものです。

 それゆえ、「『本当の自分自身』に定まる」ということは「夢物語」みたいに私たちは思っているところがありますし、「自分の心の内側に全ての答えは既に在る」ということを信じる勇気も失っています。

 しかし、たしかに「本当の自分」というものは在りますし、私たちの「心」には、頭で考えても出せない答えを直感的に導き出すことのできる力が、元から備わっているのです。

 

 私は、たとえどれだけたくさんの人たちが「『真の自分』なんてものは無い」と言おうとも、「『それ』は在る」と言い続けるつもりです。そして、「そういうことを言い続けている人間が現にいる」という事実によって、誰かの心がわずかでも支えられたなら、私の「責務」は果たされたことになります。

 かつて何人かの人たちが、本の言葉を通して、私にそのような「『在る』と言い続ける在り方」を示してくれました。そのことに、私がどれだけ助けられたかわかりません。

 彼らの慈悲と尽力に、私はなんとかして少しでも報いたいと、いつも思っています。

 

・「自分の足」で

 技法の実践によって「古いパターン」が破壊されると、私たちはあたかも自分が「丸裸」になってしまったかのように感じます。「古いパターン」は全て、自分のことを守る「衣」として機能していたからです。

 そういった状況の中で不安や恐れに直面してしまっている人に対して、私ができる「アドバイス」は、次の二つです。

 一つは、ここまで書いてきたように、「『闇夜』にはちゃんと終わりがある」と知っておいて欲しい、ということです。主観的には、それは「終わりのない暗闇」のように思えるかもしれませんが、忍耐強く進み続けることで、必ず「終わる日」が来ます。そのことを信じて、どうか進み続けて欲しいと思います。

 

 もう一つは、「闇夜」の中で、「否定的な見方」よりも「肯定的な見方」を意識的に育てるようにして欲しい、ということです。

 「否定的な見方」というのは、「なにもかも不確かになった。あれもこれも前のようにできなくなってしまった」と言って、「失ったもの」を数え、嘆くことです。

 「肯定的な見方」というのは、「あらゆることが不確かだからこそ、今日を新しく生きられる」と考えること、あるいは、「『できなくなった』のではなく、『新しい仕方を学んでいる』のだ」と考えるよう努めることです。「失ったもの」を数えるのではなく、「新しく芽生えたもの」に目を向け、そこに意識の焦点を当て続けるのです。

 もしも「肯定的な面」だけに意識を向けるなら、徐々に「否定的な面」は視界に入らなくなっていきます。「失ったもの」について気にしなくなり、「現れてくるもの」に自然と気持ちが向くようになるのです。

 そして、このような「肯定的な見方」は、「闇夜」を通り抜ける過程で挫けそうになったとき、私たちを「内側から」支えてくれる大きな力となります。

 そもそも「闇夜」を最後まで抜け切るためには、私たちは「自分自身の力」を信じなければなりません。「外側の力」に寄り掛かることなく、「内側に備わっている力」を信じなければ、到底進むことなどできないのです。

 

 「闇夜を進むこと」について、他人は誰も責任を代わりに負ってはくれません。進むかやめるかを、自分の代わりに決めてくれる人など、どこにもいないのです。

 「理解のある師」だけは背中を押してくれると思いますが、たとえ師に背中を押されても、本人が「これ以上進みたくない」と思っていたら、何も起こりません。なぜなら、この世の誰一人として、「闇夜」を他人に歩いてもらうことなどできないからです。

 私たち全員が、「自分の闇夜」を歩いていきます。誰もがそれを、「自分の足」で歩き抜かなければならないのです。

 

 そして、だからこそ「歩くこと」には「無上の価値」と「尊さ」があります。なぜなら、それが「本人の決断」であるからです。

 私たちが単に誰かに指示されて「ロボット」のように歩いているだけならば、そのような歩みに「価値」はありません。「歩くこと」そのものに「価値」を宿すのは、あくまでも私たち自身の「決意」です。

 誰もそれを指示せず、何の保証もないのに、時にはまわり中から反対されながら、それでも自分で「行く」と決め、歩き続ける。たとえ「たった一歩」であったとしても、そういう歩みは「尊いもの」だと、私は思います。

 

・伝えたいことは

 ひとまず、今回お伝えしたかったことは以上になります。

 技法の実践というのは、基本的に孤独なものです。「正解」もわからないまま、闇の中を手探りするように自分の足で一歩ずつ進んでいかねばなりません。師の存在も、背中を押してはくれますが、最終的には自分で進むことを決断しない限り、私たちは「闇夜」を通り抜けることができないのです。

 私が一番伝えたいのは、「そのような恐怖の中で、みんな頑張って『自分の実践』をしているのだ」ということです。もしもあなたが「辛い」と思ったときや「恐い」と感じたときには、これまで何千年もの間、世界中であらゆる技法を実践してきた無数の人々のことを、どうか思い出して欲しいと思います。みんなそれぞれに自分の人生に苦しみを抱え、それを乗り越えるために独りきりで「闇」の中を歩いていったのです。

 たとえ自室で一人坐って実践をしているときであっても、私たちは決して「独りぼっち」ではありません。同じくらい孤独な状況で、これまで世界中の無数の人々が実践をしてきましたし、それは今この瞬間にもそうなのです。

 

 私もまた、「自分の実践」を日々続けている、ちっぽけな「一人の人間」です。だから、もしあなたが「自分の場所」で、「自分なりの実践」を懸命に続けているのであれば、私たちはお互いに思想も価値観もまったく違う人間同士かもしれませんけれど、深いところで私とあなたは「同じ」だと私は思います。そういう意味で、「自分の実践」をコツコツと続ける人々というのは、いかなる党派の旗の下にも集まることはないままに、歴史を越えて繋がる「仲間」だと言えるでしょう。

 結局のところ、私がこの講義で一番言いたいのもまた、そのことなのです。

 「理論」はどうでも良いのです。私は「他人が読んでも理解しやすいように」と思って、あえて理論的に体系立てて語ってはいますが、一番伝えたいのは「理屈」ではないのです。

 私が一番伝えたいことは、「私たちはみんな同じだけ『独り』として生きているのだ」ということです。それが伝わりさえしたら、「理屈」はみんな忘れていいのです。そして、ただ「自分の道」を勇気を持って歩いていって欲しいと願います。

 

・次回予告

 次回からは、「感情」についての解説に入っていきます。これが終われば、この講義もひとまず終了となる予定です。

 もう少しですが、よろしくお願いします。

(2018年10月4日加筆修正)

 

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