感情を乗りこなす技法

・前置き

 今回から「感覚」「思考」「感情」という三つのアプローチの最後、「感情についての技法」を解説していこうと思います。といっても、やること自体はこれまでとほとんど変わりません。「感覚を深める技法」について解説をしたときには、「自分の体験」を深めていくことの重要性を話しましたし、「思考を観察する技法」について解説したときは、「自分」と「自分でないもの」を区別して「対象に染まりきらずに観察する姿勢」を、苦悩から抜け出すための方向性として私は示しました。

 「感情」を通したアプローチについても、これは同じです。つまり、ここでも私は、「自分の体験を重視すること」や「観察する姿勢を保つこと」の重要性を繰り返し述べていくつもりなのです。

 

・「自分の感情」から学ぶ

 ところで、もし私たちが「怒りとは何か」ということを本気で知りたいと思った場合、いったいどうするでしょうか?

 世の中には「怒り」について論じている多くの人がいます。もちろん、そこには、今こうして「感情」についての解説を書いている私自身も含まれるわけですが、そもそも感情について私たちは本当に他人から学ぶことが必要なのでしょうか?

 もちろん、「他人の意見」を参考にするのは大事だと思いますが、外からいくら「理論」だけ吸収したとしても、「自分自身の感情」をちゃんと見つめていないなら、本人がそこから多くのことを学ぶことはできないと私は思います。

 

 これは「感覚」についても言えることなのですが、私たちは「それについて自分では何も感じないまま、理論だけ組み上げてもっともらしく語る」ということをしてしまう場合があります。

 たとえば、「感覚の解剖生理学的な知見」を大いに語りながら、自分の身体を日頃ほとんど感じたことのない医学博士や、思想家として「愛とは何か?」ということを理論的には巧みに語りながら、日常生活の中で草花を愛でたり小さな子ども達にわずかな愛情を示したりすることさえ一切しない人々が、世の中にはいます。反対に、まったくの無学で、そういった理論を一つも知らない人の中には、日々の畑仕事や大工仕事などの中で自分の身体と「感覚的な対話」をしたり、何の下心もなく朗らかに隣人へ挨拶をするといったような仕方で「自分の喜び」を表現したりできるような人々が、確かに存在しているのです。

 実際に、私たちは「大思想家」が語る言葉の中よりも、むしろ「市井の人」の何気ない日々の言動の中にこそ、「生の豊かさ」や「瑞々しい感情表現」を見ることができるものです。そして、それらはどこか他所に学びに行かなくても、私たち自身の内側に、既に全て存在しているのです。

 もし私たちが「怒りとは何か」を本気で知りたかったら、他人にそれについて聞きに行くよりも、まず「自分の怒り」と直面したほうが得られるものは多いはずです。

 

 ところで、「怒りは悪い」と誰もが口を揃えて言いますが、本当にそうなのでしょうか?

 「怒り」が「悪いもの」だということを、私たちはどれくらい「自分自身で」知っているでしょうか?

 

 私たちは「自分で知ること」によってしか、真に変わることがありません。たとえ「怒ることは悪い」と他人に言われて、漠然と「そういうものか」と思っても、それによって変わるのは私たちの「表面的な振る舞い」だけです。私たちの振る舞いそのものを支えている心の側まで根底から変えるのは、「他人の言葉」ではなくて、いつも「自分自身の知」なのです。

 「そうか、怒ることは確かに悪いことだ。有害であるばかりで、何の利益にもならない」と、私たち自身が本当に自分で知ったなら、他人に言われるまでもなく、私たちは「怒りを捨てるための努力」を、独りで自然と始めるようになります。あるいは、「怒りにも自分や他人のためになる有効な使い方がある」ということがわかったら、そのような使い方に精通するよう努力を重ねていくかもしれません。

 いずれにせよ、私たちが「自分で知る」という地点に至ったなら、私たちはいかなる外的な強制も必要としないまま、自然と「倫理的」になります。反対に、私たちが自分や他人の害となることをいつまでも繰り返し続けてしまうのは、結局のところ、それが「悪いこと(害ばかりで益のないこと)」だということが、自分自身ではっきりわかっていないからなのです。

 

 「自分で知る」ためには、まず「自分の怒りを感じる」ということが必要になります。

 「怒り」が私たちを捕らえるとき、私たちは自分の内側で何かが煮えたぎっているように感じるものです。何か「不快な毒素」のようなものが体中を駆け巡り、物を壊したくなったり、誰かを殴りたくなったりします。そして、息は荒くなり、顔は熱くなり、目のまわりは強張り、私たちは思わず拳を握りしめて、ギリギリと歯ぎしりし始める。ひょっとすると、心の中では「罵詈雑言」を大声で叫び続けているかもしれません。

 現に「怒り」が私たちの中で起こっている時、こういった無数の「感覚」が私たちを取り囲んでいます。しかし、私たちはそれらを自覚できるほど明確に感じることが実際にはほとんどありません。というのも、私たちが本当に怒っている時には、往々にして、私たちは「怒りそのもの」になってしまっているからです。

 このような時に私たちは、「それを外側に表現しなくても済むよう必死で内側に抑え込む」か、「反射的に怒鳴り散らしたり暴れ回ったりする」か、どちらかの事態に陥りがちです。いずれの場合も、私たちは「怒り」をまるで感じてもいなければ、観てもいません。それは、私たちが「怒り」とあまりにも深く「同化」してしまっているためなのです(「同化」については、第十講を参照してください)。

 

・「 感情」を呑み込む日本人

 「怒り」に対して「必死になって抑え込む場合」も、「脊髄反射的に表現する場合」も、「それを感じてもいなければ観てもいない」という点は共通しています。言い換えれば、どちらの場合にも、私たちは「自分の怒り」に対して無意識な状態にあるのです。

 では、他にどうしたらいいのかというと、「第三の道」があります。それは、「深く『怒り』を感じながらも、それに染まらず観察する」という道です。

 

 ただ、おそらくこれは多くの人にとって、口で言うほど簡単なことではないと思います。

 私が「感覚」「思考」「感情」という順番で説明することにしたのは明確な理由がありました。それは、まず「感覚」という土台がなければ、頭の中が「騒音」でいっぱいになりがちな私たち現代人の多くは、「思考」をそのまま見つめることなど到底できないだろうと思ったからです。しかし、「感情」については、私たち日本人はきっと「思考」以上にアプローチが難しいはずだという風にも私は思ったのです。

 

 これは私個人の偏見かもしれませんが、日本人は「感情表現」をすることがとても苦手な民族だと思います。私はこれまで、ダンスやボディワークに関する各種ワークショップに参加した際に、海外の人たちが開けっ広げに自分のことをさらけ出す場面で、ほとんどの日本人が、小さく縮こまっまま「自分の意見」を何も言わず、指導者から言われた通りのことをただ無難にこなして帰っていく姿を、何度も目撃しました。

 そして、そういった傾向は、何より私自身についてよく当てはまります。かつての私は、せっかく参加しに行ったワークショップで、そんな風に自分を閉ざしてばかりいて、結果として何も学べないことが非常に多かったのです。これでは、いったい何のためにワークショップに参加しに来たのかわかりません。 

 

 日本人は「本音」と「建て前」を使い分ける傾向が強い民族だと、よく言われます。実際、私たちの今の社会では、「本音」をかなり強く抑え込むことを幼い頃から教育される場合が多いように感じます。日常的にも、親の口から思わず出る叱り言葉は「そんなことしたらみっともないでしょ!」というものですが、これは「それをするのはあなたのためにならない」といった意味での「助言」ではないし、「世間ではそういうことをしてはいけない『ルール』になっている」という「社会的な約束事」をクールに確認している言葉でもありません。むしろそれは、「『他人の目からどう見えるか』ということをこそ、最も大事にしないといけない」という親の側が持っている価値観の押しつけです。

 当たり前ですが、これはしょせん「一つの価値観」に過ぎません。そして、なぜ「他人の目からどう見えるか」ということを一番大切にしなければならないと世間の多くの親が思っているかというと、せいぜい「そうしないとみんなから仲間はずれにされてしまうから」というくらいしか、理由は見当たりません。実際に「仲間はずれ」にされることで生きていけなくなるかどうかは、子ども自身の生命力や潜在能力の多寡によって決まりますが、そこまで深く見抜いた上で「たとえイヤでも、今は他の子達と同じようにしなさい」と告げることのできる親は、それほど多くはないように思います。

 

 また、日本は「ムラ社会的な傾向」が強いということもよく言われます。それはつまり、「仲間内での同質性」を異常なまでに重んじる傾向があるということです。

 日本では、だいたいどこでも「隣の人と同じであること」や「他人と違わないこと」が重視され、「人と異なった振る舞いをすること」はとかく非難されます。そして、もしも「他人と違う言動」をあまりにも頻繁に取り続けると、その人は「みんなと同じことをしない人間はこのムラには置いておけない」という風に判断され、時には多数派によって集団内から排除されてしまうこともあります。「ムラの内側」における連帯は固いけれど、一度でも「ムラの規律」に反することをすると、容赦なく排斥されるわけです。

 

 こういった私たちの傾向は、おそらく日本が地理的に「辺境」に位置しており、中国を始めとした諸外国から一方的に文化的・政治的な侵略をされやすかったことと関係していると思います。海の向こうから多くの文物が流れてきても、自国の文化の「独自性」がそれによって完全には破壊されないよう、「内向き」に閉じるように私たち日本人は深く条件付けられてきたわけです。

 そして、「外からやって来たもの」を外面的には喜んで受け取る振りをしながら、内側ではまったく別のことを感じたり考えたりしている。内側では息苦しくなるほど「同質性」を求め合い、外側に対しては無難にいい顔をしてお茶を濁すのです。

 これが、私たち日本人が「自分を守ろう」とするときの「よくあるパターン」です。

 

 長い歴史の中で、このような「自己防衛のパターン」を繰り返してきたことによって、私たちの国は他国から何度も侵略されながらも、その「独自性」を保ってこられた部分があると思います。

 ただ、こういった傾向が私たち個人個人の精神生活の内部にまで深く入り込んでしまっているために、次の二つのことが非常に困難になってしまっています。

 一つは、「たとえ他人と違っていても堂々としていること」であり、もう一つは、「自分の内側で本当に思ったり感じたりしていることを率直に表現すること」です。

 むしろ、日本のように「内向きに閉じている社会」において、この二つは「同じ一つのこと」となってしまう場合も多いでしょう。なぜなら、「誰も彼もが自分の本心を隠している社会」においては、「本音をちゃんと語ること」がそのまま「他人がまるでしないこと」にもなってしまうからです。

 

 私たちの社会では、「言いにくい事実を明確に指摘する人」はだいたいどこに行っても煙たがられます。場合によっては、ただ「誰も言わない事実」を指摘しただけで、「人として間違ったこと」をしているかのように非難されることさえある。なぜなら、日本において「本当に思っていることを告げる」というのは、「みっともないこと」であり、「悪徳」であると思われているからです。

 たしかに、かつて中国や西欧諸国が侵略的な意図を持って接触してきたときに、私たちがいつもいつも「本当に思っていること」を隠さず言っていたら、私たちの国は今のような形で残っていなかったかもしれません。というのも、私たちの国は、多くの場合、「自分」を曲げてでも他国に服従しないと生き残れないほどに、弱かったからです。

 もし本音を堂々と言えるだけの「強さ」がかつての日本にあったなら、そういうことはしなくてもよかったでしょう。しかし、今ほど「国際的な連帯」や「公平性」が表だって重要視されていなかった「弱肉強食の時代」に、「事実として弱い」にもかかわらず、あたかも「対等」であるかのように振る舞っていたら、私たちの祖先は生き残れなかったかもしれません。そのような状況であれば、「本音を言うこと」を「悪徳」として封じ込める習慣が広く民間にまで根付いていることも、「とりあえず生き残れる確率を少しでも上げる」という面ではプラスに作用します。

 それゆえ、その子孫であるところの現代日本に生きる私たちまでもが、神経症的に「本音」を抑え込んでは、つい「外面」ばかり飾り立ててしまうのも、そうなるだけの「歴史的な事情」があってのことだとは思います。

 

 ただ忘れてはならないのは、「そういうことを続けなければならない時代」は日本においては既に終わっており、むしろ「他人と違うことを堂々と主張できる力」のほうが世界的に今は求められているのだということです。つまり、日本という国がこれからも「独自性」を保って生き残るために必要とされる力が、昔と今とでは180度変わってしまったということです。

 こんなことはいまさら私が言うまでもないことですが、これからの時代は、「自分で感じ、自分で考え、自分なりの表現をできる人間になること」がどこの国や業界でも求められることになるはずです。私たち自身が「言われたことをそのまま効率よくこなすこと」を重視するのはもうやめて、「自分なりの深い哲学や行動原理を内側に持ち、独自の世界観を提示できる人間」にならない限り、おそらくもうどこの国の人々も、日本人の意見に敬意を持って耳を傾けてはくれなくなると思います。

 というのも、表面的にはあたかも「自分の意見」であるかのように他人の口真似をして威張ったり媚びたりしつつ、内実としてはいつも「他人の顔色」をうかがってビクビクしているだけの人間を、世界中の誰も「大人」としては見なしてくれないでしょうから。

 

・「感じること」と「表現すること」

 話がいささか脱線しましたけれど、上記のような事情があるので、私たち日本人が「感情」についてアプローチを試みる際には、多くの場合、次に示す二つの「壁」を突き破らなければならないでしょう。

 一つ目の「壁」は、「そもそも自分の感情を自覚することができない」という形を取り、もう一方は「感情をどう表現したらいいのかわからない」という形を取って現われます。

 

 まず、「感情を自覚することができない」ということですが、これは「そもそも自分が本当は何を感じているのか、自分自身でもわからない」という状態のことです。

 たとえば、幼い頃からいつも「感情」を押し殺し、親や教師の期待に応えることばかりしてきた人は、往々にして「自分の感情」が死んでいます。他人の期待を裏切らないために、「喜んでいる演技」や「悲しんでいる振り」は巧みにこなせても、内側では何も動かなくなっている。それゆえ、本人がいくら自分の内側をのぞきこんでみても、そこに「血の通ったもの」は一つも見つかりません。

 実際、最近の青少年の間では「自分が何をしたいのかわからない」とか「何が好きで何が嫌いなのかわからない」といった悩みがかなり増えているそうです。これは、その人自身があまりにも深く「感情」を抑え込み続けた結果として、起こってきた現象と言えます。

 

 また、二つ目の「感情表現の仕方がわからない」というのは、「たとえ内側で何を感じていても、他人の期待に応えて、空気を読んで表現しないといけない」という心理的な圧力がかかり続けることで、そもそも「真正な表現」がまったくできなくなってしまっている状態のことです。「内側で感じていること」が現に在るのに、それを感じたままに表現することがまるで許されなかったために、自分の中にある感情がそもそもどういう表現を求めているのかが本人にもわからなくなってしまっているのです。

 たとえば、「内側で喜びのようなものを感じても、そもそも笑い方がわからない」とか、「泣きたいほど悲しいはずなのに、まるで涙が出てきてくれない」とかいったケースがあります。マンガみたいな話ですが、「感情を表現するための通路」があまりにも深く破壊されてしまうと、こういったことも実際にしばしば起こるのです。

 

 ここまで書いてきたことは、他人事のように語っていますけれど、すべて私自身の実感としてあるものです。

 私は今から5年ほど前に、「身体へ働きかけて感情を思い切り表現するプロセスを含んだ瞑想法」という珍しい技法を集団で実践しているところに、数日間通い詰めたことがありました。そこでは、十数人の人たちが防音設備の整った地下室に集まり、文字通り、狂ったように暴れまくっていました。そうすることによって、心身に溜まった「ゴミクズ」を放り出し、内側に静けさを作り出すことを狙いとしていたのです。

 たとえば、意図的に激しいリズムで呼吸をしたり、喉が潰れるほど叫んだり、力の限り跳びはねて身体をガクガクと震わせたり、置いてある座布団をひたすら殴りまくったり…、とにかく自分が怪我をしたり他人に危害を加えたりしない範囲でめちゃくちゃに暴れまくることが、その場では「推奨」されていたのです。

 私はそれまでの人生で、「そういうことをしてもいい」という許可をもらったことが一度もなかったので、初めのうちはかなり戸惑いました。しかし、この技法を既に長年にわたって実践してきた人たちにまわりを囲まれ、あっちでもこっちでも「狂った叫び声」が木霊している状況に身を置いているうちに、私の中で何かが「プツン」と切れました。私は今まで一度も出したことがないような大声を張り上げ、「これ以上は無理だ」と思われる限界を超えて跳ね回りました。そして、数日にわたって毎日それを繰り返したことで、徐々に私の内側から「怒り」や「悲しみ」が溢れ出すようになってきたのです。

 

 私はそれまで、「自分が感情をまったく感じていない」ということに気づいてさえいませんでした。当時の私は漠然とした「閉塞感」と「息苦しさ」の中で生きてはいましたが、自分が「燃えるような怒り」や「胸が裂けそうな悲しみ」をまるで感じないまま生きてきたことを、そのときまで自覚していなかったのです。

 私が上で記した「狂乱」のただ中にあったとき、私は本当に久しぶりに「自分の怒り」と「自分の悲しみ」を感じることができました。そして、気が狂ったように「憎しみの言葉」を叫んでは、赤ん坊に戻ったかのように身も世もなく泣き悲しみました。最初は自分がしていることがバカバカしいように感じましたが、徐々に表現に「血」が通い始め、私の叫びと嗚咽とはどんどんエスカレートしていったのです(ちなみに、私が5年前に実践していたこの技法は、バグワン・シュリ・ラジニーシ、通称OSHOと呼ばれる覚者が考案した「ダイナミック・メディテーション」という瞑想法です。興味のある人はご自分でも調べてみてください)。

 

 数日間にわたる集団での実践の後、私はとても清々しい気持ちになっていました。そのとき、自分の中でずっと鬱積していた「重荷」がいくらか解放されたように感じたことを、私は今もはっきりと覚えています。

 しかし、同時に「自分はまだまだ怒り足りないし、悲しみ足りない」と感じたことも覚えています。私はそれからも、時折、自宅内の自室に独りきりで閉じ籠もっては、この技法を実践するようになりました。近所迷惑になるので、声は出さないようにしておこなっていましたが、それでも十分な効果がありました。

 

 そうして実践を続けていくうちに、自分の中にはまだ無数の「重荷」が残っていることを、私はますます強く感じるようになっていきました。

 そして、なんとかしてそれらの「重荷」を解放しない限り、自分の内側へさらに深く潜っていくことはできないということも、私は徐々に理解し始めました。私の中の多くの「重荷」が、私が前に進むことを妨げる大きな障害になっていたことがわかったのです。

 また、もしも「感情」を抑え込んでばかりいたら、自分の人生は無味乾燥なものになってしまうということも、私は知りました。人生を深く生きるためには、「怒り」や「悲しみ」といった、一般に「ネガティヴな感情」と呼ばれているものも含めて、しっかりと感じ、深く見つめ、十全に表現できるようになることが必要であると理解したのです。

 

 私がここで言っていることは、それほど突拍子もないことではありません。私はただ、「十分に深く怒りや悲しみを生きることのできない人間には、真の喜びや安らぎも体験し得ない」と言っているだけです。

 実際、もし私たちが何かしらの技法の実践によって最終的に「落ち着き」や「安らぎ」といった状態に至るのだとしても、そういった境地は、私たちの「内なるケダモノ」を無理やり黙らせることによってではなく、その存在をありのままに受け容れ、手懐けることによってしか達成できないものです。自分の中で唸り続ける「ケダモノの声」にいくら耳を塞いでも、それによって「ケダモノ」が消えてなくなりはしません。むしろ、そんなことをしたら、「表面的な穏やかさ」の後ろに隠れて、「ケダモノ」は本人に気づかれないまま肥え太っていくことになってしまうでしょう。

 私は自分の「邪悪さ」を否定も肯定もしません。それはただ「在る」だけです。

 そして、私たちが一度その存在を自覚し、「邪悪さ」を十分に深く生きられるようになると、それと同じだけ深く「神聖さ」を生きることもできるようになっていきます。ここには動かしがたい相関関係があります。「喜怒哀楽」と並べて表記されることも多いですが、実際に、もし「怒」や「哀」を深く生きる能力がないならば、その人は「喜」や「楽」といったものもまた、表面的なレベルでしか生きることができないのです。

 

・「感情」を引っ張り出すために

 今回の講義の最初にも言いましたが、「感情についての技法」を実践していく際にも、これまでと同様、「『感情』を内側から深く生き、同時にそれに染まり切らずに観察する」ということが中心的なテーマになってきます。しかし、そのためには、上でも記したような日本人に特有の「感情表現に対するブレーキ」を解除していくことが、まず第一に必要になるのです。

 そもそも「自分で感じていないこと」については、私たちには観ようがありません。かといって、「感じない」からと言って「それが無い」というわけではありません。「生きた人間」である以上、「感情」がまったく存在しないということは考えにくいです。つまり、実際には「感情が無い」というわけではなく、「自分の感情」をありありと感じる能力そのものが、何かしらの理由によって破壊されてしまっている可能性が高いということです。

 

 また、「感情がうまく感じられない」という人の場合、「感じる力」が減退しているだけでなく、「感情の動きそのものが極めて不活発になっている」ということも考えられるでしょう。かつての私がそうだったように、このような場合、本人の主観としては「閉塞感」や「息苦しさ」があるだけで、「感情が封じ込められている」という風にはあまり感じません。しかし、実態としては、内側で「感情の流れ」が淀んでいるはずなのです。

 そして、「閉塞感」や「息苦しさ」といったものは、このような「感情の淀み」によって発生してきているものと考えられます。たとえば、呼吸が浅くなることで息苦しく感じるのと同じように、「内側の感情」が停滞してしまうことによって「なんとなく気分が塞ぐ感じ」が発生しているというわけです。

 

 もし「閉塞感」や「息苦しさ」だけがあって、喜怒哀楽などの「感情」が希薄なように感じる人は、「感情」がかなり強く抑え込まれている可能性があります。それゆえ、「自分の感情」から学ぶためには、まず抑え込まれている「感情」を外に引き出すための「訓練」から始めるのが、順序として適切です。

 今回は、そのような「感情を引き出すためのワーク」をいくつか提案しようと思います。

 

<感情を引き出すワーク>

  • 自分だけしか見ないノートを作って、そこに思いつくままに言葉を殴り書きしていく。誰にも見せないものなので、「汚い言葉遣い」が並んだり、「支離滅裂」になってしまっても気にしない。言葉にならない場合は、文字にせずに、絵や線などでがりがりと表現してもよい。
  • 自室に籠もり、クッションなどをひたすら殴ったり叩きつけたりする。「憎い」と思う人間がいれば、その人のことを思い出して、「実際に相手にやりたいと思っていたこと」をクッションに向かって表現する。安いクッションをこのためだけに買っておいてもいい。あるいは、新聞紙や段ボール紙などを、力の限り引き裂きまくるのもなかなかに爽快感がある。
  • 山や海など人気のない場所に行くか、防音設備の整っている部屋に行って、声の限りに叫びまくる。街中では決して出せない音量の声で叫ぶだけでも、心につかえていたものが自然と流れ出す。いつもはなかなか口にできない「罵詈雑言」を叫ぶことで、長いあいだ抑圧されていた「怒り」や「憎しみ」を引っ張り出すことを試みてもよい。

 

 他にいくらでもやり方はありますが、それらについては各自で工夫してもらうとして、ここでは「覚えておいて欲しい要点」だけ述べておきます。

 まず優先的に意識して欲しいのは、「自分や他人に危害が及ばない方法」を取ることです。クッションをいくつか台無しにするくらいなら安いものですが、自分の身体を痛めつけたり、クッションではなく実際の他人を殴ったり罵倒したりしに行かないようにしましょう。というのも、ここにおいて大事なことは「感情が動くための通路を掃除すること」なのであって、「自分を傷つけること」や「他人に復讐すること」ではないからです。

 私たちの「感情」は、あまりにも長く抑圧されていると、たいてい内側で「目詰まり」を起こして外に出られなくなってしまっています。そのため、まずは「感情が外にちゃんと出てこられる通り道」を確保することが重要になります。

 とはいえ、最初のうちは、「やっぱり相手を実際に痛い目に遭わせないと気が済まないよ」と感じる人もいるかもしれません。しかし、コツを掴めば、「復讐」に頼ることなく「感情」だけを自分で処理して無毒化することが徐々にできるようになっていくはずです。

 

 これが一つ目のポイントです。とにかく、自分や他人に危害を加えないこと。

 自分を傷つけることは、長い目で見ると自分自身の生命力を衰微させてしまいますし、他人に危害を加えると、遠からず相手からも仕返しをされてしまい、「無用な復讐の連鎖」が始まってしまいます。いずれにしても「エネルギーの浪費」に繋がりますから、長期的には、自分のためになりません。「もっと有効なエネルギーの使い方」を学ぶためにも、「誰のことも傷つけない方法」を工夫してみてください。

 

 二つ目のポイントは、たとえ頭では「バカバカしい」と思っても、真剣にやることです。

 たとえば、「ノートに罵詈雑言を書き連ねる」とか、「クッションを『憎い敵』と見なして殴りつける」とかいったことは、人によっては「やってて白ける」ということがあると思います。そもそもこれは「奥に引っ込んでいる感情を引っ張り出すための方便」なのですから、試み始めたばかりの人は、基本的にまだ内側でそれほど「怒り」も「悲しみ」も実際には感じていないものです。それゆえ、「こんなのただの演技じゃないか」と本人は内心で感じてしまいやすいものなのです。

 確かにその通りです。これは「演技」に過ぎません。しかし、そのような「バカバカしく思える演技」を真剣に続けていくうちに、「本物の感情」が乗るようになってくるのです。もしも「迫真の演技」ができるなら、それは本人にとって「実際にそう感じている」ということと同じになります。必要なのは「本物」であって必ずしも「演技」ではありませんが、もしも「演技」を通して「本物」が現われるなら、「演技」という形式を私たち自身がうまく利用したらいいだけの話です。

 

 これが二つ目のポイント。「感情の伴わない演技」のように感じても、「演技」を続けることで「本物の感情」がそこに乗るようになると、覚えておくことです。「白々しい」と自分で感じても、気にせずに続けることです。「演技」が真剣であれば、遅かれ早かれ「本物」が現れ始めることでしょう。

 

 三つ目のポイントは、「自分の感情」について「善悪」の区別を設けないことです。

 たとえば、「怒り」というものについて「悪いものだ」と思っていると、無意識にそれを抑圧して自分から見えなくしてしまいがちになります。「自分の中に怒りが在る」ということを私たちが認めることができない限り、それを白日の下に引っ張り出すことは難しいです。

 別に他人に見せる必要はないので、たとえ自分では「認めたくない」と抵抗を感じるようなものであっても、勇気を持って表現するよう努めてみてください。私が上で提案した方法において、「誰にも見せない秘密のノート」を作ったり、「自室に閉じ籠もる」「人のいない海や山に行く」といったことをしたりするのも、「他人の目を気にしないで全てをさらけ出せるようにするため」です。いくら「認めたくない」と思っていても、「在るものは在る」のですし、「事実」を拒絶していてはいつまでも先に進むことができません。

 「怒り」や「憎しみ」や「悲しみ」や「恐れ」のことも、「喜び」や「慈しみ」や「愛情」や「感謝の念」と同じだけ「正当な客人」として迎え入れる心を持ってみてください。実際、それらは等しく「お客さん」です。彼らには彼らの「事情」があって、私たちの元にやって来ているのですから。

 

 そういった「個々の事情」については、私たちが「自分の感情」を深く観察していけば、やがてわかります。「感情」を抑え込まずにそのまま観れば、「そうか、こういった理由があったから、自分はいつも怒りに囚われていたのだな」といったことが徐々にわかるようになるのです。

 しかし、そういった理解ができるようになるためにも、私たちのほうで「感情の選り好み」をしないようにしなければなりません。言い方を換えると、「いかなる感情に対しても敵対しない」という姿勢が求められるのです。

 たとえば、もし私たちが誰かのことを「敵だ」と思っていたら、私たちはその相手のことをちゃんと理解することが難しくなってしまうでしょう。「この人はいったいどういう人間なのだろう?なぜ、この状況でいつもああいった振る舞い方をするのだろう?」といったことを考えていくためには、「敵対」という姿勢を落とすことが必要になってくるのです。

 

 これが三つ目のポイントとなります。すなわち、「自分の感情」に対して選り好みをしないことです。

 おそらくこれが三つのポイントの中で一番難しいとは思うのですが、「何者にも敵対しない」という姿勢は、他の技法の実践を深めていく過程においても遅かれ早かれ必要となるものですので、ぜひ意識して取り組んでいって欲しいと思います。

 

・まとめ

 最後に、ワークにおける三つのポイントをもう一度整理しておきます。

  1. 「自他を傷つけることのない方法」で感情を表現するよう工夫すること。「復讐」に頼らなくても、「感情」は流せる。
  2. たとえ「白々しい演技に過ぎない」と感じても続けること。「演技」であっても、熱がこもれば「本物」になる。
  3. 「自分の感情」を差別しないこと。何であれ、自分のところにやってきたものは「お客さん」として平等に遇する。

 

 以上です。

 次回は、ワークによって「感情」を引っ張り出した後、その「感情」をどうやって観察していったらいいのかということについて、解説をしていこうと思います。

(2018年10月11日 表現をやや修正)

 

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