続・感情を乗りこなす技法

・おさらい

 前回、「感情」について、いくつかの事柄を解説をしていきました。

 まず、「感情」に対しても、これまで「感覚」「思考」について取っていたのと同じ姿勢で向き合うという方向性を、再確認しました。つまり、「『感情』を『自分の体験』として深く生きながら、同時に、それによって染まりきらないよう距離を取って観察する」という姿勢が、ここでも重視されることになります。

 そして、これは別な言い方で表現すると、「『自分の感情』から学ぶ」という在り方を意味しています。たとえば、「怒りとは何か?」ということを他人に聞きに行く前に、「自分の怒り」から学ぶのです。

 たとえば、「怒り」がどのように自分の中で発生し、どのように自分を操り、どういった結果をもたらすのか。こういったことを、「『怒り』を感じつつもそれに染まらない」という距離から眺めることで、学び取っていくわけです。

 そもそも「怒りは悪い」ということを、他人から言われて「そうか」と思い込んでいるだけでは、人はせいぜい「表面的な振る舞い」しか変えません。人が「振る舞い」ではなく「心」を入れ替えるのは、「自分自身で知ったとき」だけです。そして、だからこそ、「他人の意見」や「既存の理論」からではなく、「自分の体験」から学ぶということを私は強調したのです。

 

 しかし、「『感情』を感じながら染まらない」という在り方は、日本人には難しいのではないか、という懸念が私にはありました。私たち日本人は、「本音」を隠して「建前」を大事にする傾向が強いので、「自分の感情」をありのままに認知したり、それを率直に表現したりすることに対して、無意識に「ブレーキ」を掛けてしまう人が多いだろうと、私は思っていたのです。

 

 「人間にとって不自然な在り方」を強いることの多い現代日本で生活していると、私たちは自分でも気づかないうちに「真正な感情表現」ができなくなってしまうことがあります。「自分でも気づかないうちに」というのが問題で、私たちは「自分が感情表現をまったくできなくなっている」ということを、自覚することさえできない状態に陥ることがあるのです。いわば「感情」と「自分」との間が断絶してしまっていて、橋が架かっていない状態です(ちなみにこれは、第十講で解説した「乖離」の状態の一種でもあります)。

 そのような深刻な状態に陥ってしまった人は、次の二つの「壁」を越えないと「自分の感情を思い切り表現すること」が決してできません。

 一つ目の「壁」は、「そもそも『自分の感情』を感じることができない」というものであり、もう一つは「『感情』が内側に生じていても、それをどう表現したらいいのかわからない」というものです。

 

  たとえば、幼少期から「どういう感情を持っているように他人からは見えるべきか」ということに気を使うあまり、「自分の本当の気持ち」に意識を向けることがほとんどなかった人は、「感情を感じ取る力」がまるで育っていないか、著しく退化してしまっています。それゆえ、たとえ自分の内側をのぞき込んでも何も見つけることができず、途方に暮れてしまいます。これが、私たちが「感情を表現する力」を取り戻すために越えなければならない、一つ目の「壁」です。

 また、「世間の目」や「場の空気」を気にするあまり、「楽しいときに笑う」とか「悲しいときに泣く」といった「心に適った表現」が抑え込まれてしまうことで、「どういう表現をしたら自分の心は満ちるのか」が皆目わからなくなってしまっている場合もあります。「場の要請に適った表現」はできても、「自分の心に適った表現」がわからない。その両方を自分で自覚した上で、あえて「場に合わせている」というのならそれほど大きな問題も生じませんが、「どういう表現を自分の心は求めているのか」ということがまったくわからなくなってしまっていたら、遠からず本人の中で「閉塞感」や「息苦しさ」が生じてくることになります。というのも、「場の要請」にどれほど忠実に応えても、「場から排除される恐怖」がいくらか減じるだけで、それによって私たちの「心」が満足するわけではないからです。

 たとえ内側で「何か」が動いていても、それを「自分を満たすような仕方」で表現することができない。これが、「真正な感情表現」を妨げる二つ目の「壁」となります。

 

 「感情が感じられない」、「感じてもそれをどう表現したいのかがわからない」というこの二つの症状は、私たちの「感情表現」が壊滅的に損なわれてしまったときに現われるものです。前回は、まずこの最も「深刻な症状」をどうにかして改善するための方便として、「感情を引っ張り出すワーク」を紹介したのでした。これは、誰にも見られない状況を自分で作って、内側から出てくるものをありったけ表現し尽くすワークです。

 また、このワークにおいては、「自他を傷つけない方法を工夫する」ということが最重要のポイントで、他にも「『白々しい演技』のように感じても真剣に表現すること」や、「自分の感情に対して『善悪』の観点から分別をしないように努めること」などが大事なのでした。

 

 ところで、こういったワークは主に「あまりにも致命的な仕方で感情表現のための回路を破壊されてしまった人」のためのものです。幼時からの「教育」の結果として、「自分が何を感じているのかわからない」とか「感じているものをどう表現したらいいのかわからない」とかいった状態に陥って苦しんでいる人は、まず「感情を自覚する力」を取り戻し、それから「自分を満たすことのできるところまで思い切り感情を表現し尽くす構え」を学ぶ必要があります。それらが済んでからでないと、そもそも「自分の感情から学ぶ」という在り方ができないためです。

 逆から言うと、それほどまで「教育」によって「感情」を歪められてこなかった人の場合、私が前回の講義で説明していたことについて、まるで実感を伴って理解できなかったのではないかと思います。人によっては、「何をこの人はそんなに真剣になって語っているのだろう?」と不思議に思ったかもしれません。実際、「自分の感情」をいつも自覚できていて、それらの「感情」をあたかも赤ん坊のように常にフルパワーで表現している人(外国の人や芸術家肌の人に多いです)は、前回提示したワークをわざわざおこなう意味は薄いでしょう。

 しかし、もしも「感情を自覚すること」や「全力で表現すること」に関して、自分が問題を抱えているように思えた人は、まずは前回の「感情を引っ張り出すワーク」をやってみることをお勧めします。それが、これから解説していく「感情を乗りこなす技法」の基礎になるからです。

 

・腐敗する「感情」

 今回の講義では、上で書いたような「感情の自覚と表現」がある程度できたところから、さらに先のプロセスについての話をしていこうと思います。

 まず、「感情の自覚」ができるようになっていくにしたがって、私たちは自分がどれだけ多くのことを我慢して呑み込んできたのかを知ることになります。数限りない「イヤこと」や「腹の立つこと」、「泣きたくなるようなこと」を感じないように押し込めて自分が生きてきたことを、私たちは自覚することになるのです。

 前々回の講義でも少し解説しましたが、私たちは生きていく過程で「感じる力」を失っていきます。「親や教師から押しつけられた価値観」や、「機械的な習慣」の中に埋もれて、私たち大人の「感受性」はすっかり鈍磨していることがほとんどです。

 しかし、それは必ずしも「悪いこと」ばかりではありません。というのも、「感受性が鈍っている」ということは、「『感じるのが不快なこと』を一切感じないまま生きられる」ということでもあるからです。

 もしも私たちの「感受性」が息を吹き返すと、私たちは一種の「危機」に直面します。というのも、「感じる力」が取り戻されていくことによって、それまでずっと主観的には感じないで済んでいた「怒り」や「悲しみ」、「嫉妬」や「憎悪」などのような「不快な情動」が、次々に溢れ出してくることになるからです。

 私自身がそうだったのですが、人によっては、子どもの頃の「許しがたいこと」を思い出して、怒りで全身が壊れそうになるかもしれません。「どうしてあの時、こうしてくれなかったのだ!」とか「なぜあの時、こんなことをしたんだ!」とかいった、「今さら嘆いても仕方のないこと」を叫びたくなることもしばしばです。

 

 私たちの中には、自分で思っている以上に多くの「怒り」や「憎しみ」がしまい込まれています。そして、それらは主に「家族」や「友人」に向けたものであることが多いです。

 こんなことを言うとそれこそ怒り出す人がいるかもしれませんけれど、私たちは「敵」よりも、「家族」や「友人」のことを深く憎んでいるものです。煮えたぎったマグマのような「怒り」とか、どんなに残忍な仕打ちをしても足りないと感じるほどの根深い「憎しみ」などは、「敵」に対してはあまり向けることがありません。なぜなら、「敵」だと思っている相手に対しては、私たちは自分の「怒り」や「憎しみ」を表現することにブレーキを掛けないからです。

 私たちは「敵」を憎むことについては罪悪感を抱かないので、仮に「怒り」や「憎しみ」を抱くことがあっても、それを全力で表現することを躊躇いません。それゆえ、その感情はいつも「新鮮な迸り」として表現されます。だから、ネチネチとしつこくなったりしないし、「腐臭」がするほど抑え込まれることがない。

 問題は、「家族」や「友人」に向けた憎悪です。これらは基本的に「表現する機会」を表立って与えられることは稀ですし、相手から隠れて表現するときにも、私たちはそのことで罪悪感を抱きやすいものです。「自分は『家族』や『友人』を憎んでなどいない」と思い込みたくなるのが人情というものですから、そもそもそういった「負の感情」が自分の中に在るということを自覚していない人もかなり多いはずです。

 その結果、「怒り」や「憎しみ」が全力で表現されることのないまま、何年、何十年と内側で溜まり続け、もはや最初にそれを感じたときの「鮮度」もなくなり、抱えている本人にとってさえ耐えがたいほどの「腐臭」を放つようになってしまっていることも、非常によくあるのです。

 

 前回提示したワークによって、私たちが「感情を自覚・表現するための回路」を取り戻した場合、最初に起こることは「これ」です。それはつまり、長い年月を掛けて自分の中に溜まってしまった、「腐敗した感情」と直面することです。

 「腐敗した感情」は、抱えている自分にとって非常に不快なものです。しかし、だからといってその存在を否定していると、いつまで経っても先に進むことができません。「感受性」をもう一度殺してしまって「見なかったこと」にしたとしても、それで「腐敗した感情」が成仏するわけではないからです。むしろ、そうやって「臭いものに蓋をする」ようなことをしてしまうと、取り返しがつかないところまで「感情」がこじれていってしまい、いつかは「怒り」や「憎悪」を通り越して、それが「殺意」にまで育ってしまう可能性もあります。

 世の中の無理心中や恋人殺し、親殺し、子殺しなどは、こういった「腐敗した感情」が何らかのきっかけによって爆発したものとみて、まず間違いないと思います。その残虐性や冷酷さは、外に出ることのできなくなった「感情」が内側で腐敗したことによるものです。鬱積したエネルギーが一気に解き放たれることで、その表現方法も非常に暴力的になってしまうのです。

 

 私が前回のワークにおいて、「自分や他人を傷つけないやり方を工夫すること」を最優先してもらうように言ったのはこのためです。

 私たちの内側に溜まっている「古い感情」は、「十全な表現」という仕方で完結されない限り、どんどん腐って「危険なもの」になっていきます。それをいつまでも抱えていることは、自分にとっても「危険」なことですし、他人にとっても「危険」です。そして、ワークによって真っ先に出てくるものこそが、このような「腐敗した感情」なのです。

 「古くなって腐敗してしまった感情」をなんとかして流して捨てることができない限り、私たちは「新鮮な感情」とともに生きていけるようにはなりません。ただ、「腐敗した感情」というのは、本人としても表現していて気持ちの良いものではないし、それを他人にぶつける場合、どうしても「過度に暴力的な八つ当たり」のような形を取ることになりますから、「後腐れなく始末する」ということが難しいものです。

 というのも、「なんでこうしてくれなかったの!」とか、「どうしてあんなことをしたんだ!」とかいったことを本当に心から思ったのは、人によっては何十年も昔のことかもしれないのです。それを言いたかった相手はもうこの世にいないかもしれないし、まだ生きていたとしても、先方は「そんなことあったかしら?」と思っているかもしれません。それゆえ、「未処理の古い感情」を表現するときに叫びたくなる文句というのは、たとえ本人にとっては「切実なリアリティ」を持っていても、ほとんどの他人には実感を伴って共感することが難しいものです。

 

 本当に文句を言いたかった相手がこの世にもういないとか、そもそも誰に文句を言いたかったのか自分でもわからないとかいった場合には、私たちは「無関係な他人」に対して「八つ当たり」をすることになりがちです。自分でも「そこまできつく当たらなくてもいいのに」と思うほど「些細なこと」で、「感情」が抑えきれなくなって爆発してしまう。多くの場合、たとえ「八つ当たり」をしても反撃されそうにない相手に向かって、私たちは積年の「苛立ち」や「不平不満」をありったけぶちまけてしまうのです。

 そういった自分の言動が非常に理不尽であることはだいたい本人にもわかっているので、「悪いことをした」とは思うものの、しばらくするとまた「同じ事」を繰り返してしまいます。それによって、徐々に深い自己嫌悪に陥るようになり、ますます感情を抑え込むようになる。そして、抑え込めば抑え込むほど、よりいっそう「暴力的な仕方」でそれは爆発するようになっていってしまうのです。

 

 「真の原因」を取り除かない限り、このような「理不尽な八つ当たり」をやめることはできません。私たちが自分の内側の「腐敗した感情」と直面し、それをきちんと自分で「完結」させる力を身につけない限り、私たちはそこから解放されることがないのです。

 前回も書きましたが、私たちはたとえ自分や他人を傷つけなくても、独りきりで十全に表現することによって「感情」を処理して捨てることができます。誰かを傷つけたり損なったりすることなく、「感情」だけを「完結」させることができるのです。

 そして、自分の中で抱え込んでいた「感情」を古いものから順々に「完結」させていくことによって、私たちは徐々に身軽になっていきます。内側で生まれる感情が、「古い感情のリフレイン」ではなく、「生まれたてほやほやのフレッシュなもの」になっていくのです。

 

 そのような「フレッシュな感情」であれば、他人に向かって表現する場合にも、「八つ当たり」にならずに、ちゃんと伝わります。というのも、「フレッシュな感情」の場合、「相手が何日も前にした失敗」とか「数年前の不快な思い出」などを引っ張り出してくることなく、「今ここ」で起こっていることについて感じたことを、偽りなく表現できるからです。

 たとえ「怒り」でさえも、そういう場合には共感を伴って相手に通ることがあります。そもそも「古い怒り」というのは、怒っている当の本人にも、いったい何にそれほど怒っているのかほとんど自覚できていないものです。それゆえ、当人は自分自身でも誰に向かって何を言いたいのかが曖昧なまま、「たまたま目の前にいた相手」のあらを探しては、ネチネチと執拗に責めるような言動を取ってしまいがちになります。これでは、相手としても言われたことをなかなか素直に聞くことはできません。

 それに比べて、「フレッシュな怒り」の場合には、「今ここ」で起こっていることに対して生じてくるものなので、自分も相手も「何についての怒りなのか」が直感的に理解できます。また、「今ここ」で生成するものであるがゆえに、その表現には「即興的な趣」が宿るようにもなります。「古い怒り」はたいてい「毎回同じ仕方」で表現されることになりますが、「フレッシュな怒り」には「一回性」の輝きがあるのです。

 

・「感情の主人」となるために

 このような「感情の鮮度」を取り戻すためには、ここまで書いてきましたように、「腐敗した感情」を一つずつ「完結」させていくことが必要不可欠です。「腐敗した感情」を抑圧している限り、私たちはいつまでも「過去」に引っ張られてしまって、「今ここ」で感じていることを表現できるようにはならないからです。

 「腐敗した感情」は、長い期間にわたって抑圧されていればいるほど、それを抱えている当人にとっても、まわりの他人にとっても「危険なもの」となります。そして、その「危険性」が本人にもわかっているので、ますますきつく「蓋」をして、「見なかったこと」にしてしまいがちです。 

 

 前回の講義で示したワークは、「『腐敗した感情』は『危険性のない仕方』でも表現できる」ということを学ぶためのものでもあります。このことを一度でも自得することができると、私たちは本当に気が楽になるものです。

 たとえば、かつての私はほとんど常に内側が「怒り」や「憎しみ」で煮えくりかえっていたので、「自分はいつか誰かを殺傷する事件を起こしてしまうのではないか」と内心では怯えながら暮らしていました。時には、私自身にも「自分の感情」がコントロールできなくなり、他人を傷つけるような仕方でそれが爆発しないように懸命に「感情」を抑え込みながら、どうかこうか生活を続けていた時期があったのです。

 しかし、「感情を独りきりで完結させるワーク」というものがこの世に存在することを知り、それらを実践していく中で、私は徐々に「感情の奴隷」から「感情の主人」へと変化していくことができたのでした。

 

 「感情の奴隷」から「感情の主人」へのシフト。

 それが、この「感情」についての講義が目指している方向性です。

 しかし、それはいったいどのようにして可能になるのか?

 

 「古い怒り」や「腐敗した憎しみ」に囚われると、私たちはつい「自分や他人を破壊するような仕方」でそれを表現したくなるものです。しかし、ワークを続けていくことによって、「自分も他人も傷つけることなく、それらを捨てること」ができるということが体験的にわかってきます。

 そうすると、不思議なもので、「怒り」や「憎しみ」に囚われること自体が徐々に減っていくのです。というのも、「自分はもう『怒り』や『憎しみ』を誰も傷つけない仕方で処理できる」と知ったことで、「怒り」や「憎しみ」に意識が向ける必要がなくなるからです。

 そもそも「感情」に一方的に支配されている間は、私たちは「自分の力」を信頼することがまったくできません。いつも「感情の爆発」に怯えながら、自分で自分を見張っていなければならない。そして、そのような「自己監視」が心身を常に緊張させることになるため、余計に「怒り」や「憎しみ」が蓄積しやすくなってしまう悪循環が生まれるのです。

 

 しかし、「自分は『内側の感情』を自力でなんとかできる」という自信がついてくると、私たちは「来るなら来い」と肚を決めて構えていることができるようになっていきます。そして、一度そのような構えが取れるようになると、自然と肩の力も抜けてくるので、「怒り」や「憎しみ」に限らず、多くの「感情」を外に出さなくても内側に保持していられるようになるのです。

 反対に、もしも私たちの心身が過度に緊張していると、私たちは「感情」を内側に収めておくことがまったくできなくなります。呼吸が浅くなり、表情は強張り、ちょっとした刺激にも過敏に反応するようになってしまう。

 こういった状態にあるときは、気分がいつもピリピリしていて、何かのきっかけで「感情」も爆発しがちになります。それで、本人としては「なんとか暴走しないように」と力いっぱい自分のことを抑え込む努力をしなければならなくなり、そうやって無理やり抑え込むものだから、ますます緊張と疲労が強まって「感情」に翻弄されやすくなるわけです。

 

 私はこのような状態のことを「感情のキャパシティが低下した状態」と呼んでいます。これは、「感情」を内に溜めておくことができず、常に他人に向かってそれを漏らし続けないと自分を保つことができなくなっている状態です。

 逆に、心身がリラックスして呼吸が深くなると、私たちの「キャパシティ」は増大します。自分の中で「感情」が活発に動いていても、それを必ずしも外に出さなくてよくなるのです。内側では多くのことを感じながら、それをしっかりと自分の中に収め、外側は静かなままでいられるようになる。

 これは、「感情」を無理やり抑圧するのとは違います。もしも「感情」を抑圧すると、私たちにはそれが見えなくなりますが、「キャパシティ」が増大しているときには、「『感情』が内側に在ることを知りならがもそれに染まらない」ということができるようになるからです。

 

 ここに至ってようやく私たちは「自分の感情から学ぶ」ということができるようになっていきます。「感情」について、「外側へ表現せずに内側で見守る」ということが可能になるのです。

 これができるようになると、面白いことがたくさん起こり始めます。たとえば、自分の中に「怒り」が湧いてきたとき、「ああ、いま自分の内側に『怒り』が在るな」と気づいて、それと「分離」していられるようになる(「分離」について詳しいことは第十講を参照してください)。「怒り」がたとえ自分のまわりを取巻いているように感じても、そういう状況をあたかも「他人事」のように観察できるようになってきます。

 そして、そうやって冷静に「観察」することができるようになると、「そもそもこの『怒り』はどうして起こってきたのだろう?」とか、「これまでにも同じようなパターンで『怒り』を感じたことはなかったかしら?」とかいったことについても、落ち着いて「分析」していくことができます。このような「観察」と「分析」によって、「自分の怒りのパターン」が徐々に把握できるようになり、ますます「怒り」から自由になっていくことが可能になるのです。

 

 ここで私が言っていることは、「理屈」としては最もらしく聞こえるかもしれませんが、きっと多くの人にとって「そんなことはとてもできそうにない」と思われることでしょう。そして、実際そうです。それが、頭で理解しただけの「単なる理屈」に過ぎないなら、まったく役には立たないのです。

 だからこそ、技法が重要なのです。技法の実践によって、私たちは「理屈」を忘れて、「体験」の中へと入っていくことになります。

 そして、自分で実際に体験すれば、必ずわかるはずです。「『自分』と『感情』とが分離する感覚」を一度でも自分自身で掴んだら、「感情の主人」になるとはどういうことかを、私たちは自ずから知るようになるのです。

 

 私は、誰に対しても「信じること」を求めようとは思いません。ただ「試してみること」を勧めるだけです。

 自分自身で試してみれば、きっとわかるようになります。そして、「具体的にどうやって試したらいいのか」を理解するためにだけ、「理屈」が必要になるのです。

 

<「感情」を直視する 「停止の技法」>

  • 日常生活の中で、何かしらの「感情」が内側で動くのを感じたとき、次の挙げる三つのことを、同時にする。
  • 「両目を閉じて、眼球の動きを止める」
  • 「自分がまるで石像になったかのように、身体の動き止める」
  • 「呼吸を、吸っている途中や吐いている途中であっても、即座に止める」
  • 周囲の状況によって、三つ同時におこなうのが難しい場合は、一つだけでもよい。
  • 上記した「停止」の最中に、内側で動き続けている「感情」を見つめる。

 

 これが、「感情の奴隷」から「感情の主人」になるための技法です。実のところ、この「停止の技法」は非常に広い範囲に応用できるものでもあるのですが、ここでは主に「感情を観察するための方便」という面から解説をおこなっていこうと思います。

 まず、この技法は自分の中で「感情」が現に活発に動いている時にだけおこないます。それゆえ、これまで紹介してきた技法のように、「毎日決まった時間におこなう」ということはしません。生活する中で「感情」の動きを感じたら、その瞬間が「実践の時間」ということになります。

 

 「感情」が内側に在るのを感じたら、即座に三つのものを「停止」させます。すなわち、「眼球の動き」「身体の動き」「息の動き」の三つです。

 手順でも書きましたが、周囲の状況によっては三つ同時に「停止」させるのが難しい場合も多いと思いますので、そういう時にはどれか一つだけでも構いません。

 両目を凍り付かせ、身体を石像のようにし、「あっ!」と驚いたときのように呼吸を止めます。そして、この状態を5~10秒くらい持続させている間、ひたすら自分の内側を覗き込みます。「内側で動いているもの」を観察するのです。

 

 しかし、なぜわざわざそれら三つを「停止」させるのでしょうか?

 それには、主に二つの理由があります。

 一つ目は、「外側の停止」によって、「内側の動き」がより明瞭に自覚できるようになるからです。内側で動きが起こっているとき、私たちは往々にして外側の身体も動かします。「思考の動き」に呼応して眼球が動き、「感情」を表現しようとして身体を動かしたくなり、「思考」や「感情」の変化に呼応して呼吸も自然と変わります。そして、こういった「外側の動き」に気を取られて、私たちはしばしば「内側で現に起こっていること」をまるごと見逃してしまうのです。

 「外側」をあえて止めることによって、私たちは「内側」を見つめることだけに集中することができるようになります。そもそも、私たちの意識がいつも「外側」に向きがちなのは、身体を危険から守る必要があるためです。そういう意味で、「内側の動き」より「外側の変化」に気を取られやすいのには、生存戦略上の必然性があるわけです。

 この「停止の技法」は、そのような「外側志向」の意識状態を、あえて一時的に切り換えるためのものです。それによって、私たちは一時的に「外側」から自分を切り離し、「内側」へと向かうことが容易になるのです。

 これが、わざわざ外側を「停止」させる一つ目の理由です。つまり、「外側の停止」と「内側の動き」との間のコントラストを強調することによって、「内側で動いているもの」をよりくっきりと見えるようにすることが狙いの一つなのです。

 

 もう一つの狙いは、外側を「停止」させることによって、エネルギーの流れを「外向き」から「内向き」に切り換えることです。

 そもそも、普段の生活の中で、私たちの「内側の動き」は「無意識的な言動」という形を取って、常に「外側」に漏れ出ています。たとえば、「思わず目を逸らす」とか、「脚を組み換える」とか、「無意識に貧乏揺すりをする」とかいった仕方で、「内側の事情」は「外側の言動」に多かれ少なかれ漏れているのです。

 「停止の技法」をおこなうことによって、こういった「漏れ」を起こすような「内から外への回路」が強制的に閉ざされることになります。そして、「外向き」に漏れ出てしまっていたエネルギーを、「内側」を観るために使えるようになるのです。

 

 これまでに解説してきた「内観法」「呼吸法」「観想の技法」などをある程度の期間にわたって実践していると徐々にわかってくることですが、何かを「観察」をするためにはエネルギーが要ります。今ここで論じている「感情」はもちろんのこと、「感覚」や「思考」も、それを意識的に深く見つめ、「ありのままの姿」を見極めようとするときには、「精神的なエネルギー」が必要になるのです。

 これが、一般的には「集中力」と言われているものです。たとえ身体を動かさなくても、「集中して誰かの話を聴く」とか、「熱心に何かを見つめる」とかいったことをすると、私たちは精神的な疲労感を覚えることがあります。それは、「身体の動き」ではなく「精神的な集中」によってエネルギーが消費された結果なのです。

 そういえば、野球選手のイチローは、ストレッチをするだけでも汗だくになると聞いたことがありますが、これなどはまさに「精神的なエネルギー」が内向きに凝縮された結果として起こる現象と言えます。「感じること」や「観ること」のために内向きにエネルギーを使えば、外側の身体はほとんど動かさなくても、人は汗だくになることもあるのです。

 

 いずれにせよ、「『観察』にエネルギーなんて要らない」というのは誤りです。「感じる」のにも「見つめる」のにも、エネルギーは必要となります。

 そのような「感じて、見つめる」ためのエネルギーを、私たちは普段、忙しく動き回ることで失ってしまっているので、まずその「外側の動き」を止めないことには、「内側」を落ち着いて見つめることができないのです。

 これが、外側を「停止」させる二つ目の理由となります。つまり、「無意識の言動」によって漏れ出てしまっていたエネルギーを、「内側の観察」に利用できるようにするために、外側をあえて「停止」させるわけです。

 

 これによって、「感情の表現」を通して消費されるはずだったエネルギーは、「観察すること」によって消費されるようになります。つまり、「表現」から「観察」へとエネルギーが流れる方向を変えることができるわけです。

 これは、言い方を換えれば、「感情」を抑圧せず、表現もしないまま、そのエネルギーだけを取り出して、「観察を通して学ぶこと」に使えるようになるということです。「怒り」や「憎しみ」さえもが、「自分を見つめるための貴重なエネルギー源」となるのです。

 

 これで、「『内側』を観察するためになぜ『外側』を停止させるのか」は理解してもらえたのではないかと思います。

 次は、この技法の「コツ」についてです。

 先ほども一度書きましたが、この技法は「内側で何かが動いたとき」にしか実践できません。内側に何も「動くもの」がないのに外側を「停止」しても、意味がありません。そもそもこの技法は、「内側の動き」と「外側の停止」とを同時に成立させることによって、「現に内側で動いている何か」を詳細に観ていくためのものだからです。

 

 また、実際に「停止」を実践する際には、「内側」で何かが現に動いているまさにそのとき、「即座に停止すること」が重要になります。「段々ゆっくりにして止まっていく」のではなくて、「即座に止める」というのがポイントとなるのです。

 変なたとえかもしれないですけれど、「ラーメンの湯切り」みたいな感じです。麺とお湯とを一気に分離するためには、湯切り用のザルを「ゆっくり止める」のではなく、「即座に止める」必要があります。そうしてザルを急激に止めることで、麺だけ残してお湯は弾き出されることになるのです。

 「停止の技法」の原理もこれと似ています。この技法のおいて、麺が「私たち自身」で、お湯が「内側の感情」です。「内側」で何かが動くのを感じたとき、湯切りザルにあたる「外側の動き」を即座に止めることで、「自己」と「感情」とが強制的に「分離」します。それまで「感情」と一緒に右往左往していた「自己」が、「外側」を急停止することで引き留められるのです。

 これによって、「自己」は「外側」と一緒に止まり、「内側」だけが弾き出されて遠ざかります。そして、「止まっている自分」という固定的な視点から、「まだ動き続けている感情」を離れて眺めることができるようになるのです。

 

 それから、もう一つ「コツ」というか、注意点があります。それは、「まず簡単なところから始める」ということです。

 たとえば、いきなり「激しい憎悪」とか「深い悲しみ」などに対してこの技法を実践すると、おそらく失敗します。そもそも自分が「感情」に取り込まれているときには、往々にして私たちは我を失っていますから、「そうだ、『停止』しなきゃ」ということをリアルタイムでは思いつきもしないでしょう。後になってから思い出すことはあるかもしれませんけれど、まさにその時に「今だ!」と気づいて「停止」するのは、最初のうち、かなり難しいと思います。

 技法に慣れるためには、もっと「何でもないところ」から始めることが肝要です。たとえば、「ちょっとイライラしているな」と感じたとき、即座に「停止」してみる。「外側」を止めて、「内側」のイライラした気分を見つめてみるのです。

 あるいは、なんとなく落ち込んだ気分の時、即座に「停止」する。ため息をついたり、下を向いたりしてしまいそうになった、まさにその時、「止まる」のです。そして、その「落ち込んだ気分」が、「内側」ではどんな風に感じられるか、「外側」に表現しないまま静かに感じてみます。

 

 こういった「身近なケース」でまずは試していきます。「新しい道具」の使い方に慣れるのと同じです。いきなり難しい使い方をせずに、まずは簡単で身近なところから始めて、徐々に使い方に慣れていくことを優先するのです。そうすれば、やがてはより困難な状況でも、技法を自在に使いこなせるようになっていきます。

 他の技法についても言えることですが、とにかく焦らないことです。「始め方」さえ間違えなければ、忍耐強く続けていくことで、必ず成果は出てきます。いくらか時間はかかりますけれど、おそらく2~3週間で少しずつ変化が実感されてきて、数ヶ月もする頃には、「そういえば、ずいぶん変わったなぁ」と自分でも思うようになりますから、試しに続けてみてください。

 

・まとめ

 では、最後に「停止の技法」のポイントだけ、もう一度確認しておきます。

 

◎「停止」する理由

  1. 「止まっている外側」と「動き続けている内側」とのコントラストを強調することで、「内側の動き」を見やすくするため。
  2. 「内」から「外」へエネルギーが漏れる回路を閉ざすことによって、「外側の表現」に使われるはずだったエネルギーを「内側の観察」に使えるようにするため。

 

◎技法のコツ

  1. 「内側」で実際に動いているものがあるときにだけおこなうよう意識すること。
  2. 「停止」するときには、「徐々に」ではなく「即座に」止めること。
  3. いきなり「難しい状況」で実践せず、まずは「身近な感情」で試して慣れていくようにすること。

 

 以上です。

 次回の講義では、「感情」について総まとめをしていくつもりです。そして、「感覚」「思考」「感情」という三つのアプローチを、一つに統合するような視点を提示していきたいと思っています。

(2018年10月11日加筆修正) 

 

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